映画の撮影の日が訪れた。茜は酒本が運転する車を降りてすぐ、周囲を見渡した。なお、慎夜は無事に、茜達が見舞いに行った翌々日には意識が戻ったようだった。よって茜の抱える最重要な問題事項は、桐生への口止めとなっている。

 あの後、幸い奏は追求してこなかった。照れ屋の弟は、自分からは切り出せないようで、本当に幸いだった。

 本日の収録は、妹役の水間に近づいてきた、桐生扮する害虫を、特殊捜査官の茜が初めて追い払う場面である。水間ちゃんの役は『マリア』、桐生の役は『ハルト』――芸名と一緒である、それで茜の役は、『サクラ』である。どう考えても、桐生のために書き下ろされた脚本なのだが、それはいいと考える。相手役は己では無かったかもしれないが、今は茜だ。

 洒落たカフェの前で、ハルトがマリアに花束を渡す場面に茜の役が遭遇する。若干シスコン気味のサクラがそこに割って入る場面だ。

 桐生は、茜よりも先に現場入りしていた。茜は口止めをすべく歩み寄ろうとし、即やめた。桐生は通行人やカフェの客といったエキストラの女性陣に囲まれていたのだ。

 最初から憂鬱な気分になっていると肩を叩かれた。

「AKANE、髪型を少し直そう」
「あ、はい」
「AKANE、準備はできたか?」

 そこに監督がやってきた。茜は慌てて立ち上がり、大きく頷いた。丁度髪の毛も直しおえたところである。

「普段の天使で優しいイメージとは少し異なるが、新しい扉だ。頑張るように」
「は、はい!」

 実は天使は演技であり、台本の役の方が茜の素に近いのだったりするが、それは言わないでおく。なお、本気で桐生の事も追い払いたい気持ちがあるので、この配役自体にも文句は無い。

「よし、撮影を始めるぞ」

 監督の指揮のもと、プロデューサーが見守る中、こうして撮影が始まった。
 茜は一度目を閉じ深呼吸してから、気分を切り替えた。

 そして――妹を魔の手から排除する姉になりきった。一瞬、捜査官としての仕事を忘れて、元気よく怒りながら、マリアに近づく男を排除する熱血女子になりきった。そして台詞を全力で発し、目線を台本の通りに動かす。

 結果、焦った。

 台本では、サクラに追われたハルトは、名残惜しそうにマリアを見てから、立ち去るのだ。だが桐生は、堂々と茜を見て、小馬鹿にするように笑ったのである。

 ――台本と違う。

 しかもイラッとする顔をされた。思わず茜は頭にきた。そして今は天使の顔をする必要は無いのだ。怒りのままに茜は桐生を睨み返した。それから唇を引きつらせて、無理な笑顔を浮かべる。絶対に許さないという、本音混じりの心境で、次の台詞を述べた。

「カット! 二人共良かったよ、今ので行こう。台本とは違うけど、迫力が良かった」

 すると、褒められた。

 すごく複雑な気分になりつつ、茜は気が抜けてしまった。ホッと息を吐く。すると桐生が歩み寄ってきて、ポンと茜の肩を叩いた。

「よく俺の演技にかじりついてきたな」

 桐生は茜の耳元で囁くように言った。完全なる上から目線であった。ぎょっとして茜は桐生を見た。すると桐生は、茜が初めて見る、非常に獰猛な瞳をしていた。ぎらついている。

(え。なにこれ、なんなの、この迫力は?)

 茜だって負けていなかったはずだ。少なくとも撮影中は――と、考えた。だがしかし、完全に今現在は負けている自信があった。茜は初めて桐生に気圧された。これが若手ナンバー1の迫力かと考える。

「次も期待してるから。お前なら、ついてこられるだろ?」

 少し掠れた声で、桐生が茜の耳元で続けた。茜は思わず唾液を嚥下した。ゾクリとした。しかし――絶対に負けないと念じ、茜は思いっきり大きく頷く事にした。

 その後は、ハルトとマリアの逢瀬場面の撮影が続いたので、茜はスポーツドリンクを飲みながらそれを見ていた。見ていて思ったのは、やはり桐生は上手い。水間も上手いが、それとは別のベクトルで、茜は桐生を見てしまった。桐生は、容姿だけでは無かったのだ……と、それを思い知らされた。

 だからこそ、絶対に負けるわけにはいかないと考える。

 続いて、二度目に茜が桐生を追い払う場面がやってきた。

 すると今度は、若干忌々しそうにサクラを一瞥してから、焦燥感が溢れる様子でマリアを一瞥し、そしてやはり台本には無い視線の動きで茜を見た。今回こそ少し余裕がある風に笑うという場面だったのだが、桐生は堂々と茜を睨みつけてきた。台本では徐々にコメディタッチの追いかけっこになっていくのだが――ここまででは、とてもそうは思えない。完全に挑発されている。そして茜の役は、その挑発に存分にのっかって構わないのだ。

「カット。いやぁ、いいね、いいね! というか、AKANEってそんな表情も出来たんだね。演技の幅が広いなぁ。桐生くんはそのまま続けて。自然体で。そのままの桐生君が見たい」

(……褒められた!)

 茜は全身に熱気を感じた。スポットライトが熱いからではない。演技をしていると沸騰しているような感覚に陥るのである。

 次に三度目に追い払う場面がやってきた。今度の桐生はどんな変化球で来るのか。茜は台詞を一度回想した後は、サクラになりきった。

 するとハルトが、今回はサクラを見て――動きを止めた。表情だけではなく動作まで変えてきた。

(しかもなんなの? 突っ立っているけど……チラチラとマリアと私を交互に見るだけで、立ち止まっている。は? 私にどうしろと? 私の役目は追い払う事なんだけど?)

「妹に近づかないで!」

 とりあえず茜は台詞を放った。そして台本の通り、わって入る事にした。だが桐生は動かない。勢いがついているせいで、このまま行くと、己は桐生に激突する。だが台本によると、妹を守るためならぶつかるくらいしかねない姉がサクラだ。茜は意を決してそのまま進んだ。

 その時だった。

 ひらりと桐生が茜を交わし、転倒しかけた茜を抱きとめた。素で呆気に取られた茜が桐生を見ると、桐生は台本の通り、ふわりと微笑していた。ちょっと目を惹かれる笑みだった。

「カット! 今のも二人共アドリブが良かったけど、怪我だけはしないように注意してね!」

 声がとんできた。

(え。本当に今のでいいの?)

 茜は困惑した。桐生は茜から手を離すと余裕たっぷりに笑った。

「よく俺に体ごと突っ込んできたな。ま、茜なら出来ると思ってたけど」
「なっ」
「ついてこいよ? 信じてるから」
「!」
「お前ならやれるよ」

 桐生が微笑した。しかしやはり気迫がすごい。もう現場が桐生オーラに飲み込まれている。台本なんてあってないようなものである。

(新人なんだよ、私達は? え? なにこれ)

 とはいえまぁ、W主演とはいえ、桐生を活かすための映画だろうし、これはこれで正解なのか、とも、考える。どちらにしろ、己は全身全霊で演技をするしかない。

 その後、再び、ハルトとマリアの逢瀬場面となったので、茜は少し休憩した。