沙耶の突然の訪問に玄関の鍵を閉め忘れていた。驚いて廊下の向こうを振り返った穂香の目に飛び込んで来たのは、玄関のセンサーライトに照らされた川岸がビジネスバッグを片手に持ったまま靴も脱がずに驚き顔で立ち尽くしている姿。
「あ、隼人さん……⁉」
穂香の声に、沙耶も廊下の奥を覗き込み、パァっと表情を明るくしている。元恋人との再会に今までよりもさらにワントーン高い声を上げて、「久しぶりぃ」と嬉しそうに手を振っている。彼女は別れた恋人との鉢合わせに一切も気マズさなんて感じていなさそうだ。
ただ、川岸の方は今日一日ずっと荷物の発送先の連絡が来るのを待っていた相手が、無断で自宅へ上がり込んでいる状況へ理解に苦しんでいるようだった。しかもなぜか穂香をブチ切れさせているのだから意味が分からなくて当然だ。
「おかえりなさい。早かったんですね」
穂香が気を取り直して声をかけると川岸は「どういうことなんだろう?」とでも言いたげに首を傾げつつ、革靴を脱いで廊下を歩いてくる。
「沙耶、コーヒーメーカーは家へ直接送るって言っただろ。どうして、ここに?」
「だって、他にも譲って欲しい物があったからー。あ、ブレンダーも貰ってくよ、こっちの方が使い易いんだよね」
「だからって、連絡なくってのはどうかと思うけど? こっちは発送するつもりで準備していたのに……」
川岸は昨日の晩に用意したコーヒーメーカーの梱包が剥がされているのに気付き、ハァと呆れるように溜め息を吐いていた。沙耶が家に上がり込んでからの行動が簡単に目に浮かんだみたいだ。
「ごめーん。でも、隼人に会えたら話したいこともあったから丁度良かった」
「何?」
不機嫌を露わに短く答える川岸のことは一切気にしてない風に、沙耶がさっき穂香へと頼んだばかりのことを口にする。
「そうそうあのね、私の結婚式なんだけど――」
「それは欠席で返事しただろう? 参列するつもりはないから」
「ええーっ、どうしてー? 沙耶のウエディングドレス姿、見たいって言ってたじゃない?」
「それは付き合ってる時の話。今は全く興味ないから。写真とかも送ってくれなくていい」
「またそんな意地悪を――」
「意地悪じゃない、これは本気で言ってる。俺達はとっくに別れてるんだから」
元カノの言葉にやや被せ気味に言い切ると、川岸は眉を下げた心配顔で穂香の方を向いた。沙耶の性格から穂香がかなり嫌な思いをしたのに気付いているみたいだ。
「じゃあ、用が済んだのなら帰ってくれ」
「隼人、何だか冷たくなった……」
「当たり前だろ。惚れてる女以外に優しくしても意味がない」
「何よ、それ⁉」
リビングのフローリングに置いてあったバッグを拾い上げ、コーヒーメーカーと一緒に持たせると、沙耶の背中を押し気味にして玄関へと追いやる。川岸は彼女が不満そうに頬を膨らませながらパンプスを穿いているのを、仁王立ちして監視し、穿いたと同時にドアを開いて外へと促す。
「二度と、こんなことはやめてくれ」
「もうっ、分かったわよっ!」
沙耶が吐き捨てた台詞はドアが勢いよく閉まる音で半分打ち消されてしまった。穂香は散らかったままの梱包材をかき集めてゴミ箱に捨てていく。なんだか嵐のような女性だった。本当にあの人が、以前に川岸が言っていた「しっかりした人」だったんだろうか?
ほんの短時間で一気に疲れが増したと溜め息を吐きながら戻ってきた川岸は、穂香へと苦笑いしてみせる。彼の過去に巻き込んでしまったことを申し訳ないと考えているのが手に取るように分かって、穂香は気にしてないと小さく首を横に振る。
「ちょっとビックリしたけど、私は平気ですよ」
「ごめん。前はあそこまで我が儘じゃなかったんだけど。どうも今の彼氏と式のことで喧嘩したところらしくて……」
「ああ、それで」
結婚式を前にして情緒不安定になり、元カレである川岸のことを思い出したんだろうか。人騒がせなマリッジブルーに振り回されたこちらとしては、勘弁して下さいとしか言えない。
でも元カノに対峙しても川岸が毅然とした態度を崩さなかったことにホッとしていた。彼に沙耶に対して気持ちが何も残っていないことを確認するできたのだから。おかげでもうこの家の何を見ても不安に思うことなんてないだろう。
一旦部屋に戻って着替えてくるのかと思っていたが、川岸はそのままソファーに座ってから穂香へも隣に座るようにと呼んだ。彼の隣に身体を寄せた穂香のことを、川岸は手を伸ばして肩を抱き、穂香の顔を覗き込んでくる。その眼はさっきとは打って変わってとても機嫌が良さそうに見えた。
「そんなことより、俺はさっき穂香が言ってたことをもう一度聞きたいんだけど」
「え、さっきって……?」
すぐ思い出せず聞き直しかけ、穂香は途中でハッと顔を赤らめる。沙耶に向かって勢いよく啖呵を切っていたところを彼にはガッツリ聞かれてしまっていたらしい。鍵をかけ忘れてたばかりに、彼の帰宅に気付くのが遅れたせいだ。
「ええっと、その……」
——っていうか、隼人さんってば、どこから聞いてたんだろ?
しどろもどろになりながら、穂香はこのまま誤魔化すかどうか頭を悩ませる。口にしたことに嘘はないけれど、時期とかタイミングとかそんなことを考える余裕もない。自分を真っ直ぐに見つめてくる熱のこもった瞳に、穂香の頭の中には逆プロポーズの言葉がぐるぐると旋回していた。
——こ、こういう場合って、何て言えばいいの⁉ さっきの勢いで、私が幸せにしてあげますとか⁉ それとも、お嫁さんにしてください? ええっ、急にそんなこと言う? だって、これまで一度もそういう話なんてしたことないのに……
アワアワと必死で言葉を繋ごうと狼狽えている穂香のことを川岸はクスッと小さな笑みを漏らしてから、自分の胸へと引き寄せてくる。勢い余って彼の胸にしがみついてしまった穂香。その顎を片手で持ち上げられ驚いて目を丸くしている穂香の唇へと川岸は優しいキスを落とす。
熱っぽい瞳は穂香から視線を離そうとしない。穂香もそれに応えるように黙って見つめ返すと、自然と幾度となく重なり合う唇。彼の首に腕を回してしがみついた穂香の耳元へ、川岸の穏やかな声が囁きかけた。
「穂香、愛してる。俺と結婚する気はある?」
穂香が驚いて顔を上げると、川岸は優しい目で返事を待っている。大きく頷き返した穂香の瞳から一滴の涙が零れたのを、川岸は人差し指でそっと掬い上げる。そしてもう一度唇の感触を確かめ合った後、背に回した腕でその身体を強く抱き締めた。
「あ、隼人さん……⁉」
穂香の声に、沙耶も廊下の奥を覗き込み、パァっと表情を明るくしている。元恋人との再会に今までよりもさらにワントーン高い声を上げて、「久しぶりぃ」と嬉しそうに手を振っている。彼女は別れた恋人との鉢合わせに一切も気マズさなんて感じていなさそうだ。
ただ、川岸の方は今日一日ずっと荷物の発送先の連絡が来るのを待っていた相手が、無断で自宅へ上がり込んでいる状況へ理解に苦しんでいるようだった。しかもなぜか穂香をブチ切れさせているのだから意味が分からなくて当然だ。
「おかえりなさい。早かったんですね」
穂香が気を取り直して声をかけると川岸は「どういうことなんだろう?」とでも言いたげに首を傾げつつ、革靴を脱いで廊下を歩いてくる。
「沙耶、コーヒーメーカーは家へ直接送るって言っただろ。どうして、ここに?」
「だって、他にも譲って欲しい物があったからー。あ、ブレンダーも貰ってくよ、こっちの方が使い易いんだよね」
「だからって、連絡なくってのはどうかと思うけど? こっちは発送するつもりで準備していたのに……」
川岸は昨日の晩に用意したコーヒーメーカーの梱包が剥がされているのに気付き、ハァと呆れるように溜め息を吐いていた。沙耶が家に上がり込んでからの行動が簡単に目に浮かんだみたいだ。
「ごめーん。でも、隼人に会えたら話したいこともあったから丁度良かった」
「何?」
不機嫌を露わに短く答える川岸のことは一切気にしてない風に、沙耶がさっき穂香へと頼んだばかりのことを口にする。
「そうそうあのね、私の結婚式なんだけど――」
「それは欠席で返事しただろう? 参列するつもりはないから」
「ええーっ、どうしてー? 沙耶のウエディングドレス姿、見たいって言ってたじゃない?」
「それは付き合ってる時の話。今は全く興味ないから。写真とかも送ってくれなくていい」
「またそんな意地悪を――」
「意地悪じゃない、これは本気で言ってる。俺達はとっくに別れてるんだから」
元カノの言葉にやや被せ気味に言い切ると、川岸は眉を下げた心配顔で穂香の方を向いた。沙耶の性格から穂香がかなり嫌な思いをしたのに気付いているみたいだ。
「じゃあ、用が済んだのなら帰ってくれ」
「隼人、何だか冷たくなった……」
「当たり前だろ。惚れてる女以外に優しくしても意味がない」
「何よ、それ⁉」
リビングのフローリングに置いてあったバッグを拾い上げ、コーヒーメーカーと一緒に持たせると、沙耶の背中を押し気味にして玄関へと追いやる。川岸は彼女が不満そうに頬を膨らませながらパンプスを穿いているのを、仁王立ちして監視し、穿いたと同時にドアを開いて外へと促す。
「二度と、こんなことはやめてくれ」
「もうっ、分かったわよっ!」
沙耶が吐き捨てた台詞はドアが勢いよく閉まる音で半分打ち消されてしまった。穂香は散らかったままの梱包材をかき集めてゴミ箱に捨てていく。なんだか嵐のような女性だった。本当にあの人が、以前に川岸が言っていた「しっかりした人」だったんだろうか?
ほんの短時間で一気に疲れが増したと溜め息を吐きながら戻ってきた川岸は、穂香へと苦笑いしてみせる。彼の過去に巻き込んでしまったことを申し訳ないと考えているのが手に取るように分かって、穂香は気にしてないと小さく首を横に振る。
「ちょっとビックリしたけど、私は平気ですよ」
「ごめん。前はあそこまで我が儘じゃなかったんだけど。どうも今の彼氏と式のことで喧嘩したところらしくて……」
「ああ、それで」
結婚式を前にして情緒不安定になり、元カレである川岸のことを思い出したんだろうか。人騒がせなマリッジブルーに振り回されたこちらとしては、勘弁して下さいとしか言えない。
でも元カノに対峙しても川岸が毅然とした態度を崩さなかったことにホッとしていた。彼に沙耶に対して気持ちが何も残っていないことを確認するできたのだから。おかげでもうこの家の何を見ても不安に思うことなんてないだろう。
一旦部屋に戻って着替えてくるのかと思っていたが、川岸はそのままソファーに座ってから穂香へも隣に座るようにと呼んだ。彼の隣に身体を寄せた穂香のことを、川岸は手を伸ばして肩を抱き、穂香の顔を覗き込んでくる。その眼はさっきとは打って変わってとても機嫌が良さそうに見えた。
「そんなことより、俺はさっき穂香が言ってたことをもう一度聞きたいんだけど」
「え、さっきって……?」
すぐ思い出せず聞き直しかけ、穂香は途中でハッと顔を赤らめる。沙耶に向かって勢いよく啖呵を切っていたところを彼にはガッツリ聞かれてしまっていたらしい。鍵をかけ忘れてたばかりに、彼の帰宅に気付くのが遅れたせいだ。
「ええっと、その……」
——っていうか、隼人さんってば、どこから聞いてたんだろ?
しどろもどろになりながら、穂香はこのまま誤魔化すかどうか頭を悩ませる。口にしたことに嘘はないけれど、時期とかタイミングとかそんなことを考える余裕もない。自分を真っ直ぐに見つめてくる熱のこもった瞳に、穂香の頭の中には逆プロポーズの言葉がぐるぐると旋回していた。
——こ、こういう場合って、何て言えばいいの⁉ さっきの勢いで、私が幸せにしてあげますとか⁉ それとも、お嫁さんにしてください? ええっ、急にそんなこと言う? だって、これまで一度もそういう話なんてしたことないのに……
アワアワと必死で言葉を繋ごうと狼狽えている穂香のことを川岸はクスッと小さな笑みを漏らしてから、自分の胸へと引き寄せてくる。勢い余って彼の胸にしがみついてしまった穂香。その顎を片手で持ち上げられ驚いて目を丸くしている穂香の唇へと川岸は優しいキスを落とす。
熱っぽい瞳は穂香から視線を離そうとしない。穂香もそれに応えるように黙って見つめ返すと、自然と幾度となく重なり合う唇。彼の首に腕を回してしがみついた穂香の耳元へ、川岸の穏やかな声が囁きかけた。
「穂香、愛してる。俺と結婚する気はある?」
穂香が驚いて顔を上げると、川岸は優しい目で返事を待っている。大きく頷き返した穂香の瞳から一滴の涙が零れたのを、川岸は人差し指でそっと掬い上げる。そしてもう一度唇の感触を確かめ合った後、背に回した腕でその身体を強く抱き締めた。


