ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

「隼人に結婚式の披露宴に出席するよう説得してくれないかしら?」

 さも何でもないことのように口にした女性——確か、川岸は沙耶と呼んでいた――は、穂香へ微笑んでみせる。その笑顔が何だか見下されている感じがして、穂香は心の中でムッとした。

 ——な、何言ってんの、この人っ⁉

 川岸は沙耶が送り付けてきた披露宴への招待状は翌日には欠席に丸を付けて返事を送り返している。それが彼女には納得いかないみたいだが、だからって川岸の新しい恋人である穂香に頼むことじゃない。彼女の言動全てが非常識過ぎて、穂香は口をぽかんと開けたまま硬直してしまう。
 沙耶は遠慮なくキッチンの収納を開け閉めして、中にブレンダーを見つけると嬉しそうに引っ張り出し、穂香へ振り向いてから聞いてくる。

「ねえ、このブレンダーも持って帰っていい? 見た感じ全然使ってないみたいだし。これ、同じメーカーから新しいのが出てるんだけど、サイズアップしてて使い辛いのよね」
「ハァ……私から隼人さんに伝えておきます」
「やった! やっぱり直接見に来て正解だったわー」

 勢いに負けて穂香が頷き返したのを確認すると、沙耶はもう一つのお目当てだったブレンダーを大事そうに自分のバッグへとしまい込んでいた。コーヒーメーカーが送られてくるより前に自宅に突撃してきたのは、他にも譲って欲しい物があったからなんだろうか?

 沙耶は部屋の中をもう一度ぐるりと見回してから、懐かしいとでもいうように目を細めて呟く。

「この部屋、本当に変わってなくてビックリしちゃった」

 言いながら、窓に近付いてから十三階から見える外の景色を眺める。彼女が別れを告げて川岸の元を去ったのは二年前だと聞かされていた。その頃とは街の景色はそこまで変わってはないはずだ。

「この部屋を見ちゃったら、やっぱり申し訳なかったなって思うわね。彼は私がいなければダメな人だし、別れなければって今も時々考えてたから……」

 挙式を二か月後に控えた花嫁が元カレの家で言う台詞じゃない。その思い込みの激しそうな言葉を沙耶はうっとりした表情を浮かべながら吐く。

「彼は私にとって一番の理解者だったから、別れた後もしばらくは連絡が来るのを待ってたのに……でも、今も私のこと忘れられてないのが十分分かっちゃうのが辛いわ」

 自分が一緒に住んでいた時のまま。それは彼の未練の証だと沙耶は自信満々で口にする。穂香から言わせると、仕事以外は全然な川岸が恋人と別れたくらいで思い出の品を処分するわけがない。ずっと放置したままだっただけだ。
 けれど沙耶はまるで悲劇のヒロインかのように、彼と一緒に買いに行ったというリビングの棚に手を触れて、思い出に浸りながら目を潤ませている。そんな沙耶に穂香は苛立ちを覚え、思わず確認してしまう。

「だけど、あなたの方から出て行ったって聞いてますよ?」
「私だって隼人と別れるのが辛くなかったわけじゃないのよ。でも、あのまま一緒にいたら、きっと大きな喧嘩をしてしまいそうだったから。だって、あの頃の私は隼人を見ているだけでイライラすることが増えてたもの」

 普段の生活ではどこか抜けていることがある川岸。沙耶にはそれが我慢できなかったのだという。どうしてそれを彼が結婚を意識し出す前に気付けなかったのかと、穂香は無性に腹が立ってくる。もっと早くに別れていれば、彼だってそこまで傷付かなかったはずだ。
 そんな穂香の気持ちなどこれっぽっちも察していない沙耶が、追い打ちをかけるように言う。

「今の彼との出会いは本当に運命だと思ってるの。でも、隼人のことを忘れたわけじゃないわ。だから、お互いの為にも結婚式には来て欲しいのよね……」
「元カノの式に参列することがどうして彼の為になるんですか?」
「私が別の人と式を挙げるのを見たら、彼も気持ちの区切りがつくでしょう?」
「そ、そうですか……?」
「当たり前じゃない。もう自分達は別々の人生を歩み始めたって実感できるでしょう? だって私は彼以外の人の奥さんになるんだもの」

 あまりの身勝手な言い分に、穂香は言葉が出ない。ここまで理不尽なことを言う人は店のクレーム客でも出会ったことはない。この極端過ぎる思考のズレは、もしかするとマリッジブルーってやつなんだろうか?

「それに、一生に一度きりのことだから、私のことを理解して愛してくれてる人に祝われたいじゃない? 彼にはその資格は十分にあるんだもの、絶対に出席して欲しいの。ね、だからあなたが隼人に説得してくれたら嬉しい」

 目の前で両手を合わせてお願いのポーズを取る沙耶へ、穂香は表情を変えずに首を横に振ってみせる。

「イヤです」
「どうしてー? ここに居たってことは、あなたが隼人の今の恋人なんでしょう?」
「そうですけど……いえ、だからこそ説得なんてしません!」
「でもほら、あなたから言ってくれたら彼も出席する気になってくれるかもしれないじゃない」
「そんなの私には関係ないことじゃないですか」

 頑なに断る穂香のことを、「えー、なんでぇ?」と沙耶は納得いかないみたいだ。

「私、結婚するのよ? お祝いに協力してあげたいとは思わない?」
「ちっとも。だって、私には全く知らない人ですから」
「ああ、分かった。彼がまだ私に未練があるから、焼いてるのね!」

 沙耶の無神経な言葉に、穂香の頭の中で何かが派手にブチッと大きな音を立てた気がした。これ以上この人と話していても、イライラが募るだけだ。
 穂香は目の前の元カノをキッと見据えて、言い放った。

「焼く必要なんて元から無いです。だって、あなたよりも私の方が隼人さんを幸せにできる自信がありますからっ!」

 その時、廊下の向こうで玄関ドアが静かに閉まる音が聞こえた。