ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

 冷蔵庫の中を確認しながら、穂香は今晩の夕飯の献立に頭を悩ませていた。今日は北町モールのテナント会議に出席した後に直帰すると聞いているから、川岸の帰宅は普段よりはかなり早いはずだ。せっかくゆっくりできるのなら、お酒を飲みながら軽く摘まめるものも用意しておきたいなと、冷蔵庫を閉じてからスマホを手にレシピサイトを検索し始める。ソファーの上でゴロゴロと転がりながら順にレシピ名を追い、家にあるもので作れそうなレシピを見つけるとお気に入りフォルダへ突っ込んでいく。

「あ、これならすぐ作れそう……」

 レンジ調理だけでできる茄子の簡単レシピを見つけて、調味料が全て揃っていることを確認する。食べ切れなかったら翌日のお弁当のおかずになりそうなのもポイントが高い。そんな調子でいくつか候補を上げていると、エントランスではなく玄関前のインターフォンが来客を知らせてきた。

 ——え?

 川岸なら鍵を持っているからインターフォンを鳴らすことはないし、普通の訪問客はまず下で許可を得てから入ってくる。つまり、一階のオートロックを擦り抜けて十三階まで上がって来た誰かが部屋の前にいるということ。宅配業者がマンション内でまとめて荷物を配達する時だって、必ずエントランスのインターフォンを押してから来る。1階の集合インターフォンと違い、玄関前のはカメラが付いてないからリビングに備え付けられたモニターは真っ黒な画面で、誰が来たのか確認できない。呼び出し音と共に赤く点滅しているだけだ。

 川岸からは誰かが来る予定なんて聞いてない。マンションのご近所さんが何かトラブルでもあって訪ねて来たのかと、不穏な気持ちで玄関ドアのスコープを覗き見る。
 ドアの向こうには穂香よりも少し年上に見える女性が、いつまでも反応がないのが不思議だとでも言いたげに首を傾げながら立っていた。緩めに巻いた長い髪に、淡い色のチュニックワンピに黒のサブリナパンツを合わせた小柄な女性。彼の交友関係はルーチェの山崎オーナーくらいしか知らないけど、この人も川岸の友達か何かなんだろうか? だったらいつまでも待たせても悪いと、穂香は玄関の鍵をゆっくりと開ける。

「もうっ、いるならいるって言ってよー。留守かと思ったじゃない……って、あなた誰?」

 通路側から外の景色を眺めていたらしい女性は鍵が開く音で振り返り、中から顔を見せた穂香に向かって驚いた表情になる。

「あれっ、ここって川岸隼人の部屋、よね……? え、私、部屋番号を間違えてないよね?」

 玄関前に表札は出していないけれど、部屋番号の描かれたプレートはある。それを見上げた後、ドアの隙間から玄関の中を覗き込んでいる。

「うん、間違ってない。その鏡があるってことは隼人の部屋だね、ここは」
「確かに川岸さんの家ではあるんですけど、えっと……?」

 川岸のことを親し気に下の名前で呼ぶその女性は、穂香が手で押さえていたドアをグイっと引っ張り開けて、躊躇うことなく玄関の中へとズンズン押し入ってくる。

「えっ、え、ええっ⁉」

 強引さは押し入り強盗並みだけれど、住人の知り合いみたいだから強く止め切れない。パンプスを脱いで部屋の奥へ勝手に入っていく女性のことを、穂香は慌てて追いかける。その訪問客は慣れた風にリビングの扉を開けてから、カウンターを回ってキッチンの中に入る。そして、キョロキョロとコンロの周りを見回してから、「あれぇ?」と頬に手を添えながら首を傾げていた。

「あ、あの……?」
「ねえ、ここにあったコーヒーメーカーを知らない? 黒とシルバーのやつなんだけど」

 それを聞いて、穂香はようやくピンとくる。あの調理器具のことを話題に出してくる人は限られている。多分、この女性は川岸の元婚約者だった人で間違いない。川岸からはいまだに彼女の住所の連絡は届いていない。なのに本人が先に家を訪ねて来てしまっている。これは一体どういうことなんだろう? ちょっと訳が分からない状況だったけれど、穂香は必死で平静を装って対応する。感情を押さえて会話するのは仕事柄慣れっこだ。

「コーヒーメーカーは宅配便で送ることになってるって聞いてたんですが。なので、梱包してそこに置いてあります」

 穂香がリビングの隅っこを示すと、川岸の元カノは顔をパァっと明るくする。よっぽどお気に入りだったみたいで、駆け寄って行き、昨晩に彼が必死で用意していた梱包を解き始める。彼が「形が特殊だから面倒だな」と愚痴りながら巻いていた梱包材も、穂香が見守る前であっという間に外されてしまった。

「良かったぁ。ほんと、これ全然売ってないのよね。もう処分されてたらどうしようって思ってたけど、隼人からまだ置いてくれてるって聞いて、嬉しくて取りに来ちゃった」

 そう言った後、部屋の中の様子をぐるりと見回してから、ふふふと笑っている。

「この部屋も全然変わってないのね。このソファーもその棚も私が選んだ物をそのまま使ってるんだぁ」

 そして、思い出したように立ち上がって再びキッチンの中へ入る。穂香はどう対応していいか分からず、黙って彼女の後ろから付いていく。まるで今もここの住人であるかのように、慣れた風に腕を伸ばして吊戸棚を開き、中に並んだ調理器具や食器類を覗いている。穂香がここで家事をするようになっても、この辺りはあまり触らないようにしていた。ここは元カノの色が濃く残っているから、何となく開けないようにしていたというのもあるし、こだわりの調理器具はどう使っていいか分からない物が多い。

「うん、ここもそのまんま。隼人ってば、相変わらず料理しない人みたいね」

 何だか余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、その元カノは穂香へ向かって「ねえ、ちょっと相談があるんだけどぉ」と急に馴れ馴れしく話しかけてくる。