ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

 川岸が住んでいるのはファミリー向けの分譲マンション。十五階建ての十三階の一室を彼は個人名義で所有している。エレベーターホールを出て奥から二つ目だけれど、一番端はセカンドハウスか投資物件なのかずっと誰も住んでいない。たまに換気をしに上品そうなマダムが訪れてくるから、きっと所有者の家族なんだろうと勝手に思っていた。
 反対の隣は三十代の共働き夫婦で日中はほとんど留守。土日が出勤の穂香とは全く顔を合わすタイミングは無かった。そして、上の階に住んでいるのは老夫婦らしく、たまに遊びに来た孫の足音が響いてくる時はあるけれど基本的には静かだ。

 先に起きた川岸がキッチンでお湯を沸かしている音が聞こえ、トーストしたパンの香ばしい匂いがふんわりと漂ってくる。チンという焼き上がりの合図に合わせて、穂香は布団を蹴り上げる。

「おはようございます」
「おはよう」

 本社に顔を出す日の川岸は穂香よりも少し早く家を出ていく。インスタントコーヒーの粉末を入れたカップに電気ケトルのお湯を注ぎながら、キッチンカウンターの中から川岸が顔を覗かせる。

「明日、休みだったよな? もし用事がなければ、頼まれて欲しいことがあるんだけど」

 何となく遠慮がちな聞き方に、穂香はどうしたのかと彼の方へと顔を向ける。

「いや、ちょっと発送して欲しい荷物があって……今日、梱包材を持って帰ってくるから、明日発送をお願いできないかな?」
「いいですよ。特に用事はないんで。でも、何を?」

 そう聞き返した穂香へ、川岸は視線だけを動かしてコンロ脇に置いているコーヒーメーカーを指し示す。ずっと飾りのように置いてあるだけで、この家に来てから使われているのを一度も見たことがない。メタリックな外観のお洒落なそれをどこに送るつもりなんだろう?

「沙耶が――ああ、元カノがかなり気に入っていて、これと同じ物を探したけどどうしても手に入らないから譲って欲しいって連絡が」

 言い辛そうにしている理由を察し、穂香は「ああ」と乾いた返事をする。昔の恋人のことだから頼んでいいかどうか躊躇っていたのだろう。台数限定のデザインだったらしく、もう市場には出回っていないから「どうせ使ってないでしょう?」と送るようお願いされたと川岸が言う。元カノは他の調理器具にもかなりこだわっていたみたいだけれど、中でもこのコーヒーメーカーが一番のお気に入りだったらしい。

「新居の住所を聞いてるから分かり次第連絡する」
「日中だったらコンシェルジュさんのところで発送したらいいかな?」
「ごめん、よろしく」

 一階のエントランスホール内にあるコンシェルジュカウンター。あとで送り状を貰いに行こうと考えながら、穂香は胸の中が何だかモヤモヤしていた。結婚式の招待状のこともあったし、彼の元婚約者のことはあまり好きになれそうもない。

 ——なんか、隼人さんのことをバカにし過ぎじゃない?

 川岸からは料理が好きなしっかり者だったと聞いていたけれど、彼に対してあまりにも自分本位なのが気に食わない。コーヒーメーカーを送り付けた後はもう関わらないで欲しいと思いながら、穂香は先に支度を終えた川岸のことを玄関先まで見送った。
 遅番の今日は出勤前に洗濯機を回せる余裕もある。キッチンで洗い物を片付けている時に視界に入ってくるコーヒーメーカーを忌々しいと一瞥して、洗面所へと移動する。

 仕事から帰ってくると、今朝はそのままだった調理器具は川岸の手で丁寧に梱包されてリビングの隅に置かれていた。会社で余っている用材を貰ってきて発送の準備をしたみたいだったけど、川岸は困惑顔で穂香へと告げてくる。

「新居の住所、まだ連絡してこないんだよな。何やってんだ、あいつ……」

 穂香がコンシェルジュカウンターから貰って来ておいた元払いの送り状には川岸の名前が記入されているだけ。住所と宛名を問い合わせても返信がまだだと言う。

「じゃあ、分かったら連絡して下さい。私が記入してから送るから」
「ごめん、そうしてくれる?」

 何だかまたモヤモヤが溜まっていくのを感じる。頼み事をしておいて、連絡が途中っていうのはどうなのよと腹立たしい気持ちが抑えきれない。コーヒーメーカー一つに振り回されているのが許せない。

 ——さっさと連絡してくれたら、さっさと送り付けてやるのに!

 そう意気込んでいたけれど、その日の内には彼の元へかつての婚約者からの連絡は届かなかった。
 翌朝、「連絡があったらすぐ伝えるから」と言われて普段通りに家事をこなしていた穂香だったが、リビングの床に置かれたままの荷物は夕方になってもそのままだった。

 視界に入ってくる度に、嫌な気分になるから早く送ってしまいたい気持ちが募っていく。別にそれほど大きな物じゃないのに、ものすごく邪魔に感じてしまうのはただの嫉妬だ。川岸の見た目と年齢を考えても過去の女性の影がチラつくのは仕方ないと、ちゃんと頭では分かっている。分かっているけれどヤキモチに似た感情が湧いてくるのだからどうしようもない。特に結婚を意識していたというくらい親密だった元カノのことは気にならないわけがない。