ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

 朝、電車を待つホームでシフト表を確認して、今日は野中が休日希望を出していた日だということに気付き、穂香はあからさまにホッとしてしまう。彼が今日は休みなのは知っていたけれど、ただの公休日だったら知らない内に入れ替わりがあるかもしれない。でも希望休なら何かしらの用事があるのだから、絶対に店で会うことがない。

 昨晩、マンションに着いてすぐ、野中からスマホへ着信があった。電車に乗っている時にもメッセージが二件届いていたけれど、穂香はそれらには返事を送らなかった。完全な既読スルーだ。
 内容は当然のことながら、ストックルームでの出来事について。穂香のことを想うあまり、つい行動に出てしまったという言い訳と告白。

 彼からの謝罪メッセージが保身なのか本心からなのかは分からない。でも少なくとも野中には穂香の方にもその気があると勘違いさせてしまったのは事実。でないと他のスタッフがすぐ傍にいるような状態で抱きついてきたりはしないはずだ。あの時すぐに穂香が外に出て騒いでいたら速攻で警備員を呼ばれていただろう。

 ——弥生さんの言う通りだったなぁ……

 確かに自分で思い返してみても、張り切り過ぎて距離感がバグっていたような気もする。詩織がアルバイトで入って来た時と比べると、随分と丁寧にあれこれ細かく指導してしまったかもしれない。それは別に彼だからというわけじゃなかったんだけれど……

 バックヤードで金子と遭遇した時に助けてもらった時は、野中のことを頼もしいと思った。でもそれだけだ。穂香にとって、彼はただの同僚でしかない。
 でも、川岸のいつかメンズの店を持ちたいという夢にとって、彼は即戦力になるんじゃないかという期待から、必要以上に親身になり過ぎた自覚はある。そのせいで野中が勘違いしたというのなら、穂香だって反省しなきゃいけないのかもしれない。現に先輩の眼からはやり過ぎに映っていたみたいなのだから。

「明日は一緒かぁ……」

 同じ出勤時間だから帰りまでずっと一緒だ。今日一日で気持ちが落ち着けば問題ない気はするけれど、心の整理ができる自信はあまりない。出勤してストックルームのカーテンを半分開けたままにする穂香のことを、弥生がまた心配そうな眼で見てくる。

「もし何か抱え込んでるんなら、誰かに言いなよ」
「えーっ、別に何もないですよー」

 穂香がヘラヘラと笑ってみせると、弥生は納得いかない表情をしながらもそれ以上深く追求しては来なかった。言ってしまったら彼が店に居辛くなるのは目に見えている。メッセージの文面から野中も反省してるみたいだし、穂香が気にしなければ全てが丸く収まる話なのだから。

 そう思っていたけれど、在庫を確認するために社用パソコンを触っている時のこと。ストックルームのカーテンがシャッと勢いよく開いて、穂香は反射的に身体を硬直させる。

「ちょ、大丈夫⁉ 顔、真っ青じゃないっ!」

 カーテンから顔を覗かせた弥生が、驚いて声を上げた。それを聞きつけた柚葉も、何事かとレジから首を伸ばして中の様子を覗き込んでくる。

「と、とりあえず椅子持ってくるから座りな。体調が悪いんなら――」
「大丈夫です。身体は何ともないので……」
「本当に?」
「ちょっとビックリしただけなので、もう平気です」

 レジの方から「休憩回した後なら早退してくれて構わないよ」と柚葉も声を掛けてくる。今日は野中以外の女性スタッフ全員が揃っているから、シフトには余裕がある。
 けれど穂香は「大丈夫なので」と首を横へ振ってから笑ってみせる。まだ心臓はバクバクしているけれど、本当に身体はどこも悪くない。ただ、カーテンの音に過剰反応してしまっただけだ。

 弥生はまだ何か言いたそうにしていたが、柚葉もストックルームへ入ってきたことで諦めたみたいだった。しばらくして落ち着いた穂香はいつも通りに店頭へ戻って、壁面のワンピースを眺めている客へ声を掛ける。その様子を見てホッとしている弥生の姿が穂香の視界の片隅に入った。

 ——これ以上、弥生さんにも心配かけられないもんね……

 面倒見の良い先輩を安心させようと、穂香は入店したばかりの客へと積極的に笑顔で声をかけていく。

 十九時を過ぎて、詩織と一緒に早番の勤務を終えて店を出る。バス停へと向かう詩織とは途中で別れ、駅の階段を上りかけた時、バッグの外ポケットに入れていたスマホが震えた。また野中かもしれないと恐る恐る画面を覗いた後、穂香はパアッと頬を紅葉させる。表示された『川岸オーナー』の文字に、慌てて受話ボタンをタップする。——店の誰かに見られた時の為に、電話帳の登録名はオーナー呼びのままだ。

「駅前ロータリーに、車停めてるよ」

 今日の昼過ぎに帰国したばかり川岸が、車で迎えに来たと伝えてくる。会えるのは帰宅した後だとばかり思っていたから、穂香は嬉しさで階段を一段飛ばしで駆け下りる。階段を下りきってロータリーのタクシー乗り場の奥を確かめると、見慣れたシルバーのセダン車が停まっていた。
 息を切らしながら助手席のドアを開けて乗り込んできた穂香のことを、私服姿の川岸が穏やかに微笑みながら迎え入れる。

「おかえりなさい!」
「ただいま、穂香」

 帰宅して少し仮眠を取ったらしく、一週間の出張帰りの割にはすっきりした表情をしている。国内にいた方があれやこれやと細かい仕事があるから、逆に向こうへ行っている時の方がゆっくりできたと笑って話す。

「そういう穂香の方が疲れてるんじゃないのか?」
「え、そんなことは……」

 助手席の穂香の顔を覗き込んでくる川岸の眼が心配そうに歪んでいる。シートベルトを装着しながら、一週間ぶりに会った恋人へと「全然大丈夫ですよ」と穂香は強がりながら笑って見せた。