マンションまでの帰宅ドライブは久しぶりに二人でゆっくりと話せる貴重な時間だった。なのに穂香は助手席側の窓を向いたきり、川岸から話し掛けられても相槌のような返事ばかりを返していた。彼から今聞かなきゃならない話はそれじゃない、そんな思いから全く別のことを喋っている川岸の本心を疑い始める。
——なんで、言ってくれないんだろ……隼人さんにとって、別に何でもないことなの?
他の人から聞いたと直球で詰め寄りたい気持ちも湧き上がるが、できれば彼の方から話してくれるのを待ちたかった。でないと自分は彼にとってその程度の扱いなんだと悲しくなってくる。聞かなければ何も言ってくれないなんて悲し過ぎる。
言葉の少ない彼は必要以上には何を考えているかを口にしてはくれない。もしかしたら元カノのことをまだどこかで引き摺ってるんじゃないかと不安になってくることもないわけじゃない。だって、あの家はまだ彼女の愛用品で溢れていて、毎日嫌でも目につくのだから。
「車停めてくるから、先に入ってて」
マンションのエントランス前に停車すると、川岸は穂香に先に降りるよう促してくれる。それには「ありがとう」と礼を言って自分の荷物だけを持って素直に従う。いつもは一緒に駐車場まで行く時の方が多かったけれど、きっと川岸は今日の穂香の口数が減っているのは疲れているからだと考えているのだろう。その優しい気遣いが今は辛く感じてしまう。
一人で先に部屋へ戻り、夕食の準備に取り掛かる。明日の公休日に買い出しに行くつもりでいたから冷蔵庫の中は作り置きしていたひじき煮くらいしかない。冷凍庫から味付けした状態で凍らせていたチキンを取り出してレンジで解凍し始める。遅番の時用にと下拵え済み食材はいくつか用意していたから、今日はそれを使うことにした。
お味噌汁の具になりそうな乾物を引き出しから漁っていると、玄関扉が開いた音がした。車を停めた川岸が帰って来たみたいだ。
「ああ、途中で何か買って帰ってきたら良かったな。穂香も疲れてるんだから、あるものだけでいいよ」
なんなら買い置きしてるカップラーメンでもと言う川岸に、穂香は平気と首を振ってみせる。
「鶏肉をさっと焼くだけだから。でも、お味噌汁はインスタントでいい?」
「うん、十分」
「じゃあ、用意してる内に隼人さんは先にシャワー浴びて来てください。またソファーでそのまま寝ちゃったら困るし」
「ああ、そうだな……」
ソファーテーブルの上にノートパソコンを置いて開こうとした川岸へ、穂香が先に入浴を促す。ついこないだ怒られたばかりだからか、川岸は渋々ながらも素直に従うことしたらしい。着替えを取りに自室へ向かう彼の背を穂香はじっと見つめる。彼にとって自分はどういう存在なんだろうかと不安に感じながら。
照り焼きチキンが焼き上がり、スライスしたトマトに岩塩とオリーブオイル、粉チーズをかけた簡単トマトサラダをテーブルへ並べていく。ひじき煮を保存容器から鉢に入れ替え、味噌汁用のお湯が電気ケトルで湧いたタイミングで、濡れた髪をタオルで乾かしながら川岸がリビングへと戻ってきた。シャワーで身体が温まったからか、疲れが目立ってきていた目元は少し復活している。
こうやって向かい合って座って食事するのは何日ぶりだろう。以前と同じ穏やかな生活が戻ってきたようで、ホッとする。けれど、車の中と同じようなぎこちない会話をしながら食べ終わると、今度は川岸の方が穂香へとお風呂に入るよう促してくる。
「片付けは俺がやっておくから」
「ありがとう、お願いしてもいい?」
いつもの穂香ならまた「平気ですよ」と強がって答えていただろうけれど、今日は身体も心も疲れてしまったからだろうか、早くシャワーを浴びてしまいたい気分だった。後のことは彼に任せて、そそくさとバスルームへ向かう。さっぱりすればこのモヤモヤが晴れてくれるかもと期待して。
一日を通して埃が舞う場所にいたせいで何だか軋む髪を丁寧にトリートメントでケアし、長めにシャワーを浴びたことで身体の疲労感は随分と楽になった。少し気分を持ち直した穂香が洗面所で髪を乾かしてリビングに戻った時、川岸はソファーテーブルにパソコンと資料を広げて仕事をしているようだった。その真剣な表情を斜めに見ながら、穂香は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとグラスへ注ぎ入れる。
湯上りの水分補給で気が緩んだのか思わずふぅっと息が漏れた。やっぱり普段とは違うところに勤務したから気疲れしていたのだろう。明日は家でゆっくりしようと決めて、グラスをキッチンカウンターに置いた時、川岸がパソコンから顔を上げる。
「穂香、ちょっといいかな?」
手招きされてソファーの彼の隣に座るよう指示され、穂香は反射的に顔を強張らせる。ベトナムに行く話を今からしてくれるつもりなんだろうか、と。しっかり聞こうと覚悟を決めて頷きながら穂香は彼の顔を見上げる。川岸はゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「車でも聞いたけど、何か心配なことがあるのなら――」
「え?」
「いや、ずっと何か言いたそうにしてるみたいだったし……」
——どうして? 海外に行く話をしてくれるわけじゃないの……?
期待していた話ではなくて、穂香は内心でガックリと落ち込む。彼は自分から話す気がないんだろうか? ギリギリまで知らされず、直前でショックを与えるつもりなんだろうか? 彼は長く離れていても全然平気だってこと? 考えれば考えるほど二人の間の温度差を感じて悲しくなってくる。
穂香はキッと顔を上げて、川岸の顔を見据えながら問いかける。
「隼人さん、私に何か言わなきゃいけないこと、ありませんか?」
いつまで経っても海外へ行く話を切り出してこない彼に、穂香は苛立った口調を押さえきれない。ずっと抑え込んでいた不満が一気に爆発する。
「私、人伝てに聞いてショックだったんですよ。一緒にいるんだから、大事なことはちゃんと話して。じゃないと……」
そう詰め寄りながら、穂香は自分の声が震えていることに気付く。何度拭っても止まらない涙は、自分が思っていた以上に傷付いてしまった証拠。離れ離れになる不安で押しつぶされそうになるほど、自分がこんなにも弱い女だったなんて知らなかった。
しゃくり上げながら、「ちゃんと話して」と繰り返す穂香のことを、川岸は困惑した表情で見ている。
「ごめん、何のことを言ってるのか分からない」
誤魔化しではなく本気で理解できないと首を傾げながら、穂香の顔を心配そうに覗き見てくる。彼はいきなり泣き出した女を面倒だと突き放したりするような人じゃない。宥めるように穂香の背中を撫でながら、耳元で優しく聞き返してくれる。
「俺にも分かるように、最初から話してくれる? ゆっくりでいいから」
「……っ、オーナーがっ、もうすぐ海外に……ベトナムに行くって。結構長く帰って来ないって、本店の根岸さんが教えてくれて……でも私、そんな話は全然聞いてないっ」
嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに話す穂香の言葉を、川岸はしばらく黙って聞きながら頭の中で整理しているようだった。でも、すぐに「なるほどね」と小さく呟く。
「そっか、それで穂香は不安になったんだね?」
「だって、何も言ってくれなかったから」
「でもそれ、行くのは俺じゃないから」
さらっと聞かされた言葉に、穂香は驚いて顔を上げた。川岸は変わらず優しい笑みを浮かべながら、穂香の頬を伝う涙を手で拭ってくる。両手で左右の頬を交互に拭い、大丈夫だと言い聞かせるように小さく頷いてみせる。
「え……?」
「ベトナムへの視察には当面はデザイナーの立石君が行ってくれることになってる。彼は英語もできるし、実際に現物をチェックしたいらしくてね。だから俺も行くとしても、せいぜい滞在は一週間くらいかな」
「そうなんだ、一週間……」
一週間くらいなら、これまでだって何度かあった。だからいちいち前もって言うこともないと思っていたと言われ、穂香は茫然としながら「そうですよね」と答えるのが精一杯。
——うそ……あんなに心配したのに……
不確かな噂話に翻弄されてしまったことが恥ずかしくなってくる。まだ涙が乾かない目を両手の平で覆い隠す。あまりのことに顔どころか耳までもが熱い。
「ごめんなさい……」
恥じらいながら謝る穂香のことを、川岸は愛おしいとでもいうかのように腕を伸ばして抱き寄せる。まだ湿り気の残る髪をゆっくりと流れに沿って撫でて、穂香の前髪に唇を添わす。穂香も川岸の背に腕を回し、その胸にしがみつく。久しぶりに感じる彼の体温。離れ離れになるんじゃないかと感じていた不安が、その心地良い熱でじわじわと解けていくのを感じた。
「良かったぁ」
穂香がぼそっと漏らしたその安堵の言葉。でもそれは、顔を覗き込んできた川岸の唇に容赦なく塞がれた。次に穂香の唇から漏れるのは、切なすぎるほど甘い吐息だけだった。
——なんで、言ってくれないんだろ……隼人さんにとって、別に何でもないことなの?
他の人から聞いたと直球で詰め寄りたい気持ちも湧き上がるが、できれば彼の方から話してくれるのを待ちたかった。でないと自分は彼にとってその程度の扱いなんだと悲しくなってくる。聞かなければ何も言ってくれないなんて悲し過ぎる。
言葉の少ない彼は必要以上には何を考えているかを口にしてはくれない。もしかしたら元カノのことをまだどこかで引き摺ってるんじゃないかと不安になってくることもないわけじゃない。だって、あの家はまだ彼女の愛用品で溢れていて、毎日嫌でも目につくのだから。
「車停めてくるから、先に入ってて」
マンションのエントランス前に停車すると、川岸は穂香に先に降りるよう促してくれる。それには「ありがとう」と礼を言って自分の荷物だけを持って素直に従う。いつもは一緒に駐車場まで行く時の方が多かったけれど、きっと川岸は今日の穂香の口数が減っているのは疲れているからだと考えているのだろう。その優しい気遣いが今は辛く感じてしまう。
一人で先に部屋へ戻り、夕食の準備に取り掛かる。明日の公休日に買い出しに行くつもりでいたから冷蔵庫の中は作り置きしていたひじき煮くらいしかない。冷凍庫から味付けした状態で凍らせていたチキンを取り出してレンジで解凍し始める。遅番の時用にと下拵え済み食材はいくつか用意していたから、今日はそれを使うことにした。
お味噌汁の具になりそうな乾物を引き出しから漁っていると、玄関扉が開いた音がした。車を停めた川岸が帰って来たみたいだ。
「ああ、途中で何か買って帰ってきたら良かったな。穂香も疲れてるんだから、あるものだけでいいよ」
なんなら買い置きしてるカップラーメンでもと言う川岸に、穂香は平気と首を振ってみせる。
「鶏肉をさっと焼くだけだから。でも、お味噌汁はインスタントでいい?」
「うん、十分」
「じゃあ、用意してる内に隼人さんは先にシャワー浴びて来てください。またソファーでそのまま寝ちゃったら困るし」
「ああ、そうだな……」
ソファーテーブルの上にノートパソコンを置いて開こうとした川岸へ、穂香が先に入浴を促す。ついこないだ怒られたばかりだからか、川岸は渋々ながらも素直に従うことしたらしい。着替えを取りに自室へ向かう彼の背を穂香はじっと見つめる。彼にとって自分はどういう存在なんだろうかと不安に感じながら。
照り焼きチキンが焼き上がり、スライスしたトマトに岩塩とオリーブオイル、粉チーズをかけた簡単トマトサラダをテーブルへ並べていく。ひじき煮を保存容器から鉢に入れ替え、味噌汁用のお湯が電気ケトルで湧いたタイミングで、濡れた髪をタオルで乾かしながら川岸がリビングへと戻ってきた。シャワーで身体が温まったからか、疲れが目立ってきていた目元は少し復活している。
こうやって向かい合って座って食事するのは何日ぶりだろう。以前と同じ穏やかな生活が戻ってきたようで、ホッとする。けれど、車の中と同じようなぎこちない会話をしながら食べ終わると、今度は川岸の方が穂香へとお風呂に入るよう促してくる。
「片付けは俺がやっておくから」
「ありがとう、お願いしてもいい?」
いつもの穂香ならまた「平気ですよ」と強がって答えていただろうけれど、今日は身体も心も疲れてしまったからだろうか、早くシャワーを浴びてしまいたい気分だった。後のことは彼に任せて、そそくさとバスルームへ向かう。さっぱりすればこのモヤモヤが晴れてくれるかもと期待して。
一日を通して埃が舞う場所にいたせいで何だか軋む髪を丁寧にトリートメントでケアし、長めにシャワーを浴びたことで身体の疲労感は随分と楽になった。少し気分を持ち直した穂香が洗面所で髪を乾かしてリビングに戻った時、川岸はソファーテーブルにパソコンと資料を広げて仕事をしているようだった。その真剣な表情を斜めに見ながら、穂香は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとグラスへ注ぎ入れる。
湯上りの水分補給で気が緩んだのか思わずふぅっと息が漏れた。やっぱり普段とは違うところに勤務したから気疲れしていたのだろう。明日は家でゆっくりしようと決めて、グラスをキッチンカウンターに置いた時、川岸がパソコンから顔を上げる。
「穂香、ちょっといいかな?」
手招きされてソファーの彼の隣に座るよう指示され、穂香は反射的に顔を強張らせる。ベトナムに行く話を今からしてくれるつもりなんだろうか、と。しっかり聞こうと覚悟を決めて頷きながら穂香は彼の顔を見上げる。川岸はゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「車でも聞いたけど、何か心配なことがあるのなら――」
「え?」
「いや、ずっと何か言いたそうにしてるみたいだったし……」
——どうして? 海外に行く話をしてくれるわけじゃないの……?
期待していた話ではなくて、穂香は内心でガックリと落ち込む。彼は自分から話す気がないんだろうか? ギリギリまで知らされず、直前でショックを与えるつもりなんだろうか? 彼は長く離れていても全然平気だってこと? 考えれば考えるほど二人の間の温度差を感じて悲しくなってくる。
穂香はキッと顔を上げて、川岸の顔を見据えながら問いかける。
「隼人さん、私に何か言わなきゃいけないこと、ありませんか?」
いつまで経っても海外へ行く話を切り出してこない彼に、穂香は苛立った口調を押さえきれない。ずっと抑え込んでいた不満が一気に爆発する。
「私、人伝てに聞いてショックだったんですよ。一緒にいるんだから、大事なことはちゃんと話して。じゃないと……」
そう詰め寄りながら、穂香は自分の声が震えていることに気付く。何度拭っても止まらない涙は、自分が思っていた以上に傷付いてしまった証拠。離れ離れになる不安で押しつぶされそうになるほど、自分がこんなにも弱い女だったなんて知らなかった。
しゃくり上げながら、「ちゃんと話して」と繰り返す穂香のことを、川岸は困惑した表情で見ている。
「ごめん、何のことを言ってるのか分からない」
誤魔化しではなく本気で理解できないと首を傾げながら、穂香の顔を心配そうに覗き見てくる。彼はいきなり泣き出した女を面倒だと突き放したりするような人じゃない。宥めるように穂香の背中を撫でながら、耳元で優しく聞き返してくれる。
「俺にも分かるように、最初から話してくれる? ゆっくりでいいから」
「……っ、オーナーがっ、もうすぐ海外に……ベトナムに行くって。結構長く帰って来ないって、本店の根岸さんが教えてくれて……でも私、そんな話は全然聞いてないっ」
嗚咽を漏らしながら途切れ途切れに話す穂香の言葉を、川岸はしばらく黙って聞きながら頭の中で整理しているようだった。でも、すぐに「なるほどね」と小さく呟く。
「そっか、それで穂香は不安になったんだね?」
「だって、何も言ってくれなかったから」
「でもそれ、行くのは俺じゃないから」
さらっと聞かされた言葉に、穂香は驚いて顔を上げた。川岸は変わらず優しい笑みを浮かべながら、穂香の頬を伝う涙を手で拭ってくる。両手で左右の頬を交互に拭い、大丈夫だと言い聞かせるように小さく頷いてみせる。
「え……?」
「ベトナムへの視察には当面はデザイナーの立石君が行ってくれることになってる。彼は英語もできるし、実際に現物をチェックしたいらしくてね。だから俺も行くとしても、せいぜい滞在は一週間くらいかな」
「そうなんだ、一週間……」
一週間くらいなら、これまでだって何度かあった。だからいちいち前もって言うこともないと思っていたと言われ、穂香は茫然としながら「そうですよね」と答えるのが精一杯。
——うそ……あんなに心配したのに……
不確かな噂話に翻弄されてしまったことが恥ずかしくなってくる。まだ涙が乾かない目を両手の平で覆い隠す。あまりのことに顔どころか耳までもが熱い。
「ごめんなさい……」
恥じらいながら謝る穂香のことを、川岸は愛おしいとでもいうかのように腕を伸ばして抱き寄せる。まだ湿り気の残る髪をゆっくりと流れに沿って撫でて、穂香の前髪に唇を添わす。穂香も川岸の背に腕を回し、その胸にしがみつく。久しぶりに感じる彼の体温。離れ離れになるんじゃないかと感じていた不安が、その心地良い熱でじわじわと解けていくのを感じた。
「良かったぁ」
穂香がぼそっと漏らしたその安堵の言葉。でもそれは、顔を覗き込んできた川岸の唇に容赦なく塞がれた。次に穂香の唇から漏れるのは、切なすぎるほど甘い吐息だけだった。


