長い髪をシュシュで無造作に束ね直しながら話す根岸のことを、穂香は驚いた顔で見返す。彼女はオープン準備には慣れているのか、ちゃっかりエプロンとスリッパも持参していた。
「え、そうなんですか……?」
「らしいよー。こないだの会議でそういう話があったって聞いた。そっちの店長からは聞いてない?」
「……聞いてないですね」
「今度、自社ブランドを立ち上げるみたいで、その縫製工場のあるベトナムに結構長く行くって言ってたかな」
「へー、ベトナム……」
オリジナルブランドのことは柚葉からも川岸からも聞いてはいた。本社にデザイナーを採用して、かなり前から準備しているようだった。その企画がようやく動き始めたから最近の彼が特に忙しかったのかと穂香は納得する。自社ブランドの商品を販売することは彼の夢の一つ。それが叶うことが素直に嬉しい。
——でも、隼人さんがベトナムに行ってしまうなんて、聞いてない……
今までだって出張で数日ほど家を空けることは珍しくはなかった。海外での買い付けの時は一週間くらい会えないこともある。でも、根岸の話によれば今回はそんな短期間では済まないみたいみたいで、穂香は川岸から何も聞かされていないことにショックを受ける。離れ離れになるのは耐えられないけど、大事な仕事なのだから我慢できないわけじゃない。でもこれは彼の口から直接聞きたかった。
遠巻きに川岸の姿を目で追う。米澤から頼まれた棚板はとっくに設置し終わったらしく、新しいスタッフを一か所に集めて何か指示を出しているところだった。
穂香は寂しさと腹立たしさがごちゃ混ぜになった気持ちのまま、検品し終わった商品をごっそり抱えてストックルームへと入る。ここはかえでモールのとは違いカーテンではなく木製の扉で仕切られていて、中に入ってしまうと店頭の騒がしさが少し遮断される。誰もいないストックルームで、穂香はふぅっと長い息を吐き出す。慣れない場所で気が張っていた上に、ショックな話を聞いてしまって心がソワソワして安定しない。大きなミスをする前に落ち着かないとともう一度肩を使って大きく深呼吸する。
「もう大丈夫」そう自分に言い聞かせてから振り返った時、目の前に置いてあった電話が鳴り始める。レジ横にあるのは内線だから、これは外線なはずだ。外のスタッフが来る気配はなさそうで、穂香は特に慌てずにいつも自分の店でしているように電話に出る。
「お電話ありがとうございます、セラーデときめきモール店でございます」
一瞬だけ店名を忘れかけたけれど、すぐ真横に置いてあった納品伝票を覗き見して事なきを得る。電話の相手は本店の店長だったから、穂香は「お久しぶりです、田村です」と少し挨拶を交わした。
『そちらに川岸オーナーはいらっしゃいますか?』
「ええ、いらっしゃいますよ。お呼びしますので、少々お待ちください」
携帯に電話したが繋がらなかったという相手に、穂香は床に置きっぱなしになっている川岸のビジネスバッグを頭に思い浮かべた。おそらくスマホは鞄に入れっぱなしになっているんだろう。あるいは脱ぎ捨てたベストのポケットの中か。
「本店の飯田店長からお電話です」と伝えると、川岸はすぐにストックルームへと入ってくる。穂香は運んできたストック分の商品をアイテム別に選り分けながら専用のボックスへと順にしまい込んでいく。すぐ横ではオーナーが在庫管理用のパソコンを開きながら電話で指示を出していた。
ようやく商品を片付け終わり、外へ出ようと川岸の横を通り過ぎようとした時、穂香は腕をキュッと掴まれる。驚いて立ち止まった穂香へと川岸が口パクで伝えてくる。
「帰りは待ってて」
それには黙って頷き返した穂香だったが、その顔を川岸が不思議そうに見ていたことには気付いていない。
時短勤務の戸塚は十五時過ぎには退勤したから、穂香は一人でバス停横に佇んでいた。バス停前に設置されたベンチは他のショップの学生バイトっぽい若い子達に占拠されていて座れそうもなかった。車で通っているという米澤や和久井から駅まで送るという申し出があったけれど、遠慮するフリをしてやんわりと断って川岸が迎えに来てくれるのを待つ。
しばらくすると、見慣れたシルバーのセダン車がロータリーをぐるっと回ってから穂香の目の前に停まる。運転席から穏やかに微笑んでいる川岸を確かめて、助手席に乗り込む。
「今日は疲れただろ? 明日は休みだっけ?」
「……うん」
「ここの店はどうだった?」
「広くていいですよね。特にストックルームに余裕があるのが羨ましい」
自店のギチギチに詰まった在庫を思い出してウンザリ顔をする。そんな穂香のことを川岸はいつも通りの優しい笑顔で見ていた。けれど、ふと心配そうに聞いてくる。
「何か嫌なことでもあったのか?」
「どうして?」
「途中からずっと塞ぎ込んでるみたいに見えたから」
ヘルプで入っただけの穂香とはストックルームのやり取り以外に店では会話する機会はなかった。それでも遠巻きに気にしてくれていたことは素直に嬉しいと感じた。ただ、肝心のことを言ってもらえていないことは不満でしかない。
穂香は何でもないと首を横に振ってから、助手席の窓から見える夜の街を黙って眺めた。
「え、そうなんですか……?」
「らしいよー。こないだの会議でそういう話があったって聞いた。そっちの店長からは聞いてない?」
「……聞いてないですね」
「今度、自社ブランドを立ち上げるみたいで、その縫製工場のあるベトナムに結構長く行くって言ってたかな」
「へー、ベトナム……」
オリジナルブランドのことは柚葉からも川岸からも聞いてはいた。本社にデザイナーを採用して、かなり前から準備しているようだった。その企画がようやく動き始めたから最近の彼が特に忙しかったのかと穂香は納得する。自社ブランドの商品を販売することは彼の夢の一つ。それが叶うことが素直に嬉しい。
——でも、隼人さんがベトナムに行ってしまうなんて、聞いてない……
今までだって出張で数日ほど家を空けることは珍しくはなかった。海外での買い付けの時は一週間くらい会えないこともある。でも、根岸の話によれば今回はそんな短期間では済まないみたいみたいで、穂香は川岸から何も聞かされていないことにショックを受ける。離れ離れになるのは耐えられないけど、大事な仕事なのだから我慢できないわけじゃない。でもこれは彼の口から直接聞きたかった。
遠巻きに川岸の姿を目で追う。米澤から頼まれた棚板はとっくに設置し終わったらしく、新しいスタッフを一か所に集めて何か指示を出しているところだった。
穂香は寂しさと腹立たしさがごちゃ混ぜになった気持ちのまま、検品し終わった商品をごっそり抱えてストックルームへと入る。ここはかえでモールのとは違いカーテンではなく木製の扉で仕切られていて、中に入ってしまうと店頭の騒がしさが少し遮断される。誰もいないストックルームで、穂香はふぅっと長い息を吐き出す。慣れない場所で気が張っていた上に、ショックな話を聞いてしまって心がソワソワして安定しない。大きなミスをする前に落ち着かないとともう一度肩を使って大きく深呼吸する。
「もう大丈夫」そう自分に言い聞かせてから振り返った時、目の前に置いてあった電話が鳴り始める。レジ横にあるのは内線だから、これは外線なはずだ。外のスタッフが来る気配はなさそうで、穂香は特に慌てずにいつも自分の店でしているように電話に出る。
「お電話ありがとうございます、セラーデときめきモール店でございます」
一瞬だけ店名を忘れかけたけれど、すぐ真横に置いてあった納品伝票を覗き見して事なきを得る。電話の相手は本店の店長だったから、穂香は「お久しぶりです、田村です」と少し挨拶を交わした。
『そちらに川岸オーナーはいらっしゃいますか?』
「ええ、いらっしゃいますよ。お呼びしますので、少々お待ちください」
携帯に電話したが繋がらなかったという相手に、穂香は床に置きっぱなしになっている川岸のビジネスバッグを頭に思い浮かべた。おそらくスマホは鞄に入れっぱなしになっているんだろう。あるいは脱ぎ捨てたベストのポケットの中か。
「本店の飯田店長からお電話です」と伝えると、川岸はすぐにストックルームへと入ってくる。穂香は運んできたストック分の商品をアイテム別に選り分けながら専用のボックスへと順にしまい込んでいく。すぐ横ではオーナーが在庫管理用のパソコンを開きながら電話で指示を出していた。
ようやく商品を片付け終わり、外へ出ようと川岸の横を通り過ぎようとした時、穂香は腕をキュッと掴まれる。驚いて立ち止まった穂香へと川岸が口パクで伝えてくる。
「帰りは待ってて」
それには黙って頷き返した穂香だったが、その顔を川岸が不思議そうに見ていたことには気付いていない。
時短勤務の戸塚は十五時過ぎには退勤したから、穂香は一人でバス停横に佇んでいた。バス停前に設置されたベンチは他のショップの学生バイトっぽい若い子達に占拠されていて座れそうもなかった。車で通っているという米澤や和久井から駅まで送るという申し出があったけれど、遠慮するフリをしてやんわりと断って川岸が迎えに来てくれるのを待つ。
しばらくすると、見慣れたシルバーのセダン車がロータリーをぐるっと回ってから穂香の目の前に停まる。運転席から穏やかに微笑んでいる川岸を確かめて、助手席に乗り込む。
「今日は疲れただろ? 明日は休みだっけ?」
「……うん」
「ここの店はどうだった?」
「広くていいですよね。特にストックルームに余裕があるのが羨ましい」
自店のギチギチに詰まった在庫を思い出してウンザリ顔をする。そんな穂香のことを川岸はいつも通りの優しい笑顔で見ていた。けれど、ふと心配そうに聞いてくる。
「何か嫌なことでもあったのか?」
「どうして?」
「途中からずっと塞ぎ込んでるみたいに見えたから」
ヘルプで入っただけの穂香とはストックルームのやり取り以外に店では会話する機会はなかった。それでも遠巻きに気にしてくれていたことは素直に嬉しいと感じた。ただ、肝心のことを言ってもらえていないことは不満でしかない。
穂香は何でもないと首を横に振ってから、助手席の窓から見える夜の街を黙って眺めた。


