床に積み上がっていた段ボール箱が少しずつ姿を消していき、ようやく半分になって終わりが見えてきたと安堵していた頃、大きな紙袋を両手に抱えた川岸が店頭に顔を見せる。それには米澤が嬉しそうな笑顔を浮かべ、我先にと駆け寄って出迎えにいっていた。
「お疲れ様です、オーナー」
「お疲れ様。これ、みんなで分けてくれる?」
言いながら持っていた荷物を米澤へと手渡す。中身は人気珈琲チェーン店のドリンクだったらしく、米澤はテンション高めに「オーナーからの差し入れでーす! 一旦、休憩にしましょう!」と皆に集まるよう声を掛ける。
彼からの差し入れはこの準備期間中に何度もあったらしく、新店のスタッフ達は慣れたように自分の好きな物だけ取って空いている床に座り込んでいた。
穂香も周りに倣って袋の中からカフェオレのカップを取って、段ボール箱に背を凭れかせながら床にぺたんと座った。検品作業でずっと中腰での作業だったから背中と腰はバキバキになっている。足を伸ばすとちょっとだけ楽になった気がした。そのだらりとした体勢のままで、今来たばかりの川岸の姿を目で追った。
朝一から商談があったから家を出る時は黒のスーツに身を包んでいた彼は、ジャケットは車に置いてきたのかベスト姿だった。それでもこの雑多で埃が舞っている場には不釣り合いだとネクタイを外しベストも脱ぎ、足下に置いたビジネスバッグの上に無造作に引っ掛ける。すると、シャツの袖を腕まくりしている川岸に、米澤が擦り寄っていく。
「オーナー、すみませーん。棚板が重くて上の段まで持ち上げられなくってぇ」
壁面に設置するはずの棚板を指差しながら川岸へと甘えた声を出す。長めの棚板は一人で抱えるには重くて、設置には二人で協力し合わないと危ない。それを天井に近い位置まで持ち上げるのはかなり大変だ。でも棚板を乗せないことには、壁面棚の上にディスプレイできない。それは穂香も経験があるから十分に分かっている。だから、女性スタッフだけでは無理だと、オーナーが来てくれるまで待っていたのだろう。
——でも、なんかモヤモヤするんだよね……
噂通りに米澤がオーナーに対して好意を持っているのは誰が見ても分かった。川岸が来てから彼女のテンションは目に見えて一気に上がっていたし、甘え口調もパワーアップしている。穂香との関係を知らないから仕方ないのかもしれないが、職場でそれはないだろう。
「あ、オーナー、埃が付いてますよ」
什器に擦れた時に付いたらしい埃を川岸の背中から払う時の米澤の表情に、穂香は内心でさらにイラっとする。何かにつけて彼の傍に纏わりついて、肩や腕が触れるような距離にいようとしているように見えた。これはもしや肉食系女子ってやつだろうか。あまりにも露骨過ぎて笑ってしまう。
ただ、仕事ぶりに関しては新店を任されただけはあり、効率よく準備が進められていてその点では尊敬してもいい。川岸が彼女の媚に負けての人事でないことにホッとする。
「オーナー、今日の作業の進捗なんですが――」
「うん、見た感じだと大方の陳列は今日中に終わりそうだな。細かい修正はとりあえず明日以降にして、大まかに作っていこう」
「あと、テナント担当からオープン日の販促についての確認があったのですが――」
「ああ、それはさっき事務所に寄って打ち合わせしてきた。それより、発注していた荷物は全部届いているか?」
川岸が店頭全体を見渡しながら什器と商品の状況を確認していく。店の方は何とかオープンには間に合いそうだとホッと肩で息を吐いたのが穂香の位置からも見えた。家ではあまり仕事の愚痴を言わないオーナーだけれど、内装工事で不備が見つかって一時中断する羽目になった時はかなり慌てていたのを知っている。「参ったな……」と何度も呟きながら、工事日程が記された資料を何度も見返して溜め息をついていた。内装が終わらなければ新人スタッフの研修も始められないし、いろんなことが後回しになってしまうからだ。
ようやく終わりの目途が立ったことで彼にも休める時間が早く取れるようになればいいのにと、穂香はその疲れが隠しきれていない表情を心配する。ここがオープンするまでの一時的なことだとは分かっているけれど、あまりにも忙し過ぎて最後にまともに会話をしたのがいつだったかも思い出せない。
「あ、あと、オープン前にこの店の皆で飲みに行こうって話してるんですが、オーナーのご都合の良い日を教えてくださぁい」
レジ周りのチェックをしながら米澤が川岸へ甘えた声を出しているのが聞こえてくる。川岸は他のスタッフへ何か指示を出しながら、仕事以外の話題には今は興味が無いとでも言いたげに苦笑している。
「そうだな、またスケジュールを確認して連絡する」
「嬉しい! 楽しみにしてますねー」
穂香との時間は取れなかった代わりに、ここではあんな風に他の女性から露骨に言い寄られているのは正直言って面白くなかった。
——私だって、隼人さんといっぱい喋りたいのに……
でも、穂香が見ている限り、川岸は米澤の猛アピールに対して一切の反応を示してはいない。もしや彼女の熱視線には気付いていないのかと思うほど、完全スルーだ。何かの拍子に腕がぶつかり合っても「ああ、ごめん」の一言で平然とした顔で済ませるし、何のリアクションも見せない。あまりにも一方的過ぎて、恋敵なはずの米澤のことが不憫に思えてくるくらいだ。
新しいスタッフ達はそんな店長の様子に気付く余裕はまだないらしいが、戸塚や和久井などのベテランスタッフ達は米澤の行動には失笑を漏らしている。でも、仕事への影響が出ないのならと見逃すスタンスみたいだった。
カフェオレを飲み切った後、カップを捨てに立ち上がりかけた穂香は近くにいた別のヘルプスタッフから右手をクイクイと振って呼び止められる。本店の次に古い二号店のパートで、確か名前は根岸だったはず。根岸は米澤と川岸の方へ視線を送りながら薄笑いを浮かべている。
「噂には聞いてたけど、ほんと積極的よねー。でも聞いた? 川岸オーナーがしばらく海外に行っちゃうって話——」
「お疲れ様です、オーナー」
「お疲れ様。これ、みんなで分けてくれる?」
言いながら持っていた荷物を米澤へと手渡す。中身は人気珈琲チェーン店のドリンクだったらしく、米澤はテンション高めに「オーナーからの差し入れでーす! 一旦、休憩にしましょう!」と皆に集まるよう声を掛ける。
彼からの差し入れはこの準備期間中に何度もあったらしく、新店のスタッフ達は慣れたように自分の好きな物だけ取って空いている床に座り込んでいた。
穂香も周りに倣って袋の中からカフェオレのカップを取って、段ボール箱に背を凭れかせながら床にぺたんと座った。検品作業でずっと中腰での作業だったから背中と腰はバキバキになっている。足を伸ばすとちょっとだけ楽になった気がした。そのだらりとした体勢のままで、今来たばかりの川岸の姿を目で追った。
朝一から商談があったから家を出る時は黒のスーツに身を包んでいた彼は、ジャケットは車に置いてきたのかベスト姿だった。それでもこの雑多で埃が舞っている場には不釣り合いだとネクタイを外しベストも脱ぎ、足下に置いたビジネスバッグの上に無造作に引っ掛ける。すると、シャツの袖を腕まくりしている川岸に、米澤が擦り寄っていく。
「オーナー、すみませーん。棚板が重くて上の段まで持ち上げられなくってぇ」
壁面に設置するはずの棚板を指差しながら川岸へと甘えた声を出す。長めの棚板は一人で抱えるには重くて、設置には二人で協力し合わないと危ない。それを天井に近い位置まで持ち上げるのはかなり大変だ。でも棚板を乗せないことには、壁面棚の上にディスプレイできない。それは穂香も経験があるから十分に分かっている。だから、女性スタッフだけでは無理だと、オーナーが来てくれるまで待っていたのだろう。
——でも、なんかモヤモヤするんだよね……
噂通りに米澤がオーナーに対して好意を持っているのは誰が見ても分かった。川岸が来てから彼女のテンションは目に見えて一気に上がっていたし、甘え口調もパワーアップしている。穂香との関係を知らないから仕方ないのかもしれないが、職場でそれはないだろう。
「あ、オーナー、埃が付いてますよ」
什器に擦れた時に付いたらしい埃を川岸の背中から払う時の米澤の表情に、穂香は内心でさらにイラっとする。何かにつけて彼の傍に纏わりついて、肩や腕が触れるような距離にいようとしているように見えた。これはもしや肉食系女子ってやつだろうか。あまりにも露骨過ぎて笑ってしまう。
ただ、仕事ぶりに関しては新店を任されただけはあり、効率よく準備が進められていてその点では尊敬してもいい。川岸が彼女の媚に負けての人事でないことにホッとする。
「オーナー、今日の作業の進捗なんですが――」
「うん、見た感じだと大方の陳列は今日中に終わりそうだな。細かい修正はとりあえず明日以降にして、大まかに作っていこう」
「あと、テナント担当からオープン日の販促についての確認があったのですが――」
「ああ、それはさっき事務所に寄って打ち合わせしてきた。それより、発注していた荷物は全部届いているか?」
川岸が店頭全体を見渡しながら什器と商品の状況を確認していく。店の方は何とかオープンには間に合いそうだとホッと肩で息を吐いたのが穂香の位置からも見えた。家ではあまり仕事の愚痴を言わないオーナーだけれど、内装工事で不備が見つかって一時中断する羽目になった時はかなり慌てていたのを知っている。「参ったな……」と何度も呟きながら、工事日程が記された資料を何度も見返して溜め息をついていた。内装が終わらなければ新人スタッフの研修も始められないし、いろんなことが後回しになってしまうからだ。
ようやく終わりの目途が立ったことで彼にも休める時間が早く取れるようになればいいのにと、穂香はその疲れが隠しきれていない表情を心配する。ここがオープンするまでの一時的なことだとは分かっているけれど、あまりにも忙し過ぎて最後にまともに会話をしたのがいつだったかも思い出せない。
「あ、あと、オープン前にこの店の皆で飲みに行こうって話してるんですが、オーナーのご都合の良い日を教えてくださぁい」
レジ周りのチェックをしながら米澤が川岸へ甘えた声を出しているのが聞こえてくる。川岸は他のスタッフへ何か指示を出しながら、仕事以外の話題には今は興味が無いとでも言いたげに苦笑している。
「そうだな、またスケジュールを確認して連絡する」
「嬉しい! 楽しみにしてますねー」
穂香との時間は取れなかった代わりに、ここではあんな風に他の女性から露骨に言い寄られているのは正直言って面白くなかった。
——私だって、隼人さんといっぱい喋りたいのに……
でも、穂香が見ている限り、川岸は米澤の猛アピールに対して一切の反応を示してはいない。もしや彼女の熱視線には気付いていないのかと思うほど、完全スルーだ。何かの拍子に腕がぶつかり合っても「ああ、ごめん」の一言で平然とした顔で済ませるし、何のリアクションも見せない。あまりにも一方的過ぎて、恋敵なはずの米澤のことが不憫に思えてくるくらいだ。
新しいスタッフ達はそんな店長の様子に気付く余裕はまだないらしいが、戸塚や和久井などのベテランスタッフ達は米澤の行動には失笑を漏らしている。でも、仕事への影響が出ないのならと見逃すスタンスみたいだった。
カフェオレを飲み切った後、カップを捨てに立ち上がりかけた穂香は近くにいた別のヘルプスタッフから右手をクイクイと振って呼び止められる。本店の次に古い二号店のパートで、確か名前は根岸だったはず。根岸は米澤と川岸の方へ視線を送りながら薄笑いを浮かべている。
「噂には聞いてたけど、ほんと積極的よねー。でも聞いた? 川岸オーナーがしばらく海外に行っちゃうって話——」


