ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

 朝の開店準備でハンディモップを使って棚下の綿埃を掃除しながら、穂香はさっきのことを思い出してふぅっと長い溜め息をつく。今日みたいに朝しか顔を見ない日だって多いのに、口煩く小言を言ったままで出て来てしまったことを後悔する。
 彼の身体のことを思って約束したけれど、冷静に考えるとあんなに強く言わなくったって良かったはずだ。彼だって好きであんなところで寝落ちしてしまったわけじゃないのは分かっている。思うように会えない寂しさがいつの間にか苛立ちへと変わってしまったのかもしれない。要するに、ただの八つ当たりだ。

 ——同じ家に住んでるから余計に気になっちゃうんだ……

 いつだって一緒に居られると思っていたから、会えないことへの不満が大きくなる。会えるのが当たり前に思える今の状況だからダメな気がする。もし離れて暮らせば、彼の仕事が忙しいのならと、まともに会えなくても多少の諦めもつくかもしれない。

 川岸のマンションに居候するようになって数か月。家賃や光熱費を負担してもらっているおかげで、少しは貯金もできて引っ越し代くらいはすぐ用意できるようになった。次の休みに不動産屋を見に行こうと決めたら、気分はすっきりしたはずなのに胸が少しモヤモヤし始める。潔さと未練がましさがごっちゃになった複雑な心境だ。

 ショッピングモール内に開店を知らせる爽やかな曲が鳴り始めた後、店長である雨宮柚葉が壁面の鏡でさっと笑顔チェックをしてから、最初に訪れて来た客に声をかけている。

「いらっしゃいませー」

 島什器のカットソーを畳み直していた弥生も声を出しているのが聞こえて、穂香は慌てて意識を現実へと戻す。今日は店頭のディスプレイをシーズン先取り商品へ入れ替える予定だった。ストックルームから展示用に確保していた商品を引っ張り出してきて、コーディネートの確認をしていく。ここに飾る商品はセット買いして貰えることが結構ある。「あの店頭にあるのをそのままで」と言って貰えた時の嬉しさと言ったらない。

 この仕事をしている中で穂香は店頭のディスプレイを考える仕事が一番好きだった。いつも率先して立候補していたら、他のスタッフからも何となく穂香の担当業務のように扱われている。規模の大きなアパレルメーカーの直営店にはディスプレイ専門の部署もあったりするみたいだけれど、『セラーデ』のようにセレクトショップを数店舗だけだとそういうわけにはいかない。だからこそ、たまにこうして商品を入れ替える際は気合いが入る。

「あの、その商品ってどこにあるんですか?」

 穂香が手に持っていたカーディガンを指さして、ベビーカーを押した女性が尋ねてくる。少し前に壁面に並べられているワンピースを軽く流し見していたのには気付いていたが、弥生が声をかけた時は「大丈夫です」とさらりと断っていた客だ。

「あ、どうぞこちらに全色ございます。同じ素材で半袖も出ていますので、ツインニットとして着ていただくこともできるんですよ」
「へー、使い回しが良さそうね」

 穂香が隣に並んでいる半袖の薄手ニットを広げてみせると、女性客はそれに同色のカーディガンを重ねてみたりしている。

「あ、彼女が着てるのが半袖の方の色違いです。形がキレイなので今の季節だと一枚で着ていただいてもいいですよね」

 穂香は壁面の棚に飾られたバッグを並び替えている弥生のことを示す。ちょうど今日の先輩が着ていたのが、客に勧めている半袖ニットのカラー違い。女性客は淡いブルーの商品を悩んでいるみたいだが、弥生はそれのライトグリーンの物をロングスカートに合わせている。

 「あの色も素敵よね」と呟いた女性客に、穂香はにこりと微笑んで同意して見せる。白のボリュームのあるフレアスカートを合わせている弥生の着こなしは穂香の目から見ても爽やかで可愛い。

 結局、悩んだ末に女性は弥生と同じ色のニットとカーディガンをセットにして買っていってくれた。今回は穂香がディスプレイ用に選んだコーディネートよりも弥生のリアルマネキンの方が強かったみたいだ。

 開店直後の客足が途絶えた頃、配送業者が持ってきたばかりの段ボール箱を開きながら、店長の柚葉が思い出したように口を開いた。

「そう言えば、新店の店長が決まったみたいよ。さっき全店メールが来てたわ」
「結局、誰になったんですか?」

 ビニールに包まれたままのワンピースをまとめて抱え、弥生が興味津々で聞き返す。それには柚葉はちょっと笑いを堪えたような表情になる。

「米澤さんだって。北町モールの副店長の。遠くて通えないから近くに引っ越ししたんだって、スゴイよねー」
「ええっ、転勤の為にですか⁉ めちゃくちゃ、やる気ですね……」

 弥生の驚き顔に、柚葉はフフフと意味深な笑いを浮かべている。穂香達よりも他店のスタッフとの交流のある柚葉は何か面白い情報を握っているらしい。弥生が興味津々と促すと、柚葉は少しばかり声を潜めた。

「ほら、米澤さんってずっとオーナーのこと狙ってるって有名じゃない? 店長に昇格すれば月一の会議に出れるから、北町の店長に推薦してくれって必死で頼み込んだって噂よ」
「あー、でも米澤さんだったら人事的には妥当ですもんね。推薦が無くても選ばれてただろうし」
「まあ、そうなんだけど。私的には弥生ちゃんでも良かったんじゃないのって思ってたんだけど――」
「まさか。私は引っ越しまではしたくないですよっ」
「だよねー」

 二人の話を横で聞きながら、穂香は不安な気持ちが沸き上がるのを感じていた。北町モール店で副店長をしている米澤舞香は穂香よりも一つ年上の二十八歳。服飾の専門学校を出た後に他のショップで働いていて、五年前に『セラーデ』に入ったらしい。ちょうど一年前に副店長に抜擢され、今回の新店オープンで店長へ昇格が決まったのだという。その米澤が大が付くほど川岸オーナーファンだというのはスタッフ間では誰もが知っていること。ただ、穂香は同じ店舗で働いたことがないから、実際のところはどうだかは分からないけれど。

 家でも川岸と仕事の話をすることは多いけれど、人事などの詳細まで聞くことはほとんどない。彼がこの噂を知っているんだろうかと、ちょっと心配になってくる。