ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました

「いってらっしゃい」

 名残惜しそうに何度も廊下で振り返る川岸の背に向かって、穂香は笑顔で手を振った。日曜だった昨日は彼の方が仕事が無かったけれど、今日は穂香の公休日だ。取引のあるアパレルメーカーなどの営業日に合わせてカレンダー通りな本社オフィスに対して、ショップ勤務の穂香はシフト制。休みが合わないのは今更始まったことじゃない。

 オーナーの家に居候するようになって休みが一緒になったのは穂香が引っ越した日だけだ。あの日も本当は出勤するはずの川岸が前日に仕事を前倒ししてわざわざ休みを取ってくれたおかげ。
 でも、今までそこまでの寂しさを感じることが無かったのは、帰宅すれば必ず顔を合わせて夕飯を食べ、寝る寸前まで一緒にいることができたから。

 ——オーナー、今日も遅いのかなぁ……?

 一か月後にグランドオープンする予定の大型ショッピングモール。そこにテナントとして『セラーデ』の新店舗が入ることになっている。しかもこれまでで一番広い店だ。建物自体はすでに建設が終わっていて、今は各店舗の内装工事が進められている段階らしく、川岸は頻繁に現地の様子を確認しに行っているようだった。

 内装のチェックとモール関係者との打ち合わせに、新店舗のスタッフの面接までも一人でこなしているらしく彼が既存店に顔を出す時間はほとんどなくなっている。以前はあんなに嫌だったオーナーの店舗訪問がこんなに恋しいと思う日がくるとは夢にも思わなかった。

 店で顔を合わすことはないけれど、家に帰ったら毎日会える。そう思っていたのに、新店オープンが決まってからは夜も一緒に過ごせる時間は一気に少なくなってしまった。日によっては穂香が眠ってから帰宅することもあり、そうでなくても夕飯は先に済ませるのが当たり前になりつつあった。

 一通りの家事を済ませ、食材の買い出しに出かけていた穂香は、スーパーのレジを終えてサッカー台でエコバッグに荷物を詰め込んでいる時、トートバッグの中でスマホが揺れているのに気付く。慌てて内ポケットへと手を突っ込んで探り出す。

「もしもし?」

 スマホの液晶に表示された着信名に、声を弾ませながら出る。相変わらず文字のやり取りよりも直接話すことを好む彼のおかげで、最近の着信履歴は川岸隼人の名前で埋め尽くされている。

「ごめん、今日も遅くなりそうだから、俺の分のご飯は用意してくれなくていい。他のテナントの社長達と飯食いに行くことになって――」
「うん、分かった。気を付けてくださいね」

 あまり時間がないのかほぼ用件だけの通話は、彼の背後で忙しなく聞こえてくる工事の音で少し聞き取り辛かった。穂香は買ったばかりの鮭の切り身のパックを手にハァと大きな溜め息をつく。今日はキノコ類が安かったから、鮭と一緒にホイル焼きにするつもりだったけれど、一人分だけを作る気にはならない。適当にカット野菜でも炒めるだけにしようと決めて、あまり軽くない足取りでスーパーを出る。

 ——今日はもう会えないのかな……

 お互いの翌日の仕事に支障が出てはいけないと、寝室は別にしたままだった。付き合うことになって最初の内は川岸のベッドで一緒に眠ることもあったけれど、遅く帰って来た時に穂香が先に休んでいると、川岸は穂香のことを起こさないようにと気を遣ってソファーで寝ようとしてしまう。自分のせいで彼がちゃんと身体を休めることができないのは嫌だったからベッドは別にしようと宣言したのは穂香自身。
 そのせいで今、さらに寂しさを募らせているのだからどうしようもない。

 ファミリータイプの3LDKのマンションは一人きりで過ごすには広過ぎる。特に穂香は以前は1LDKの賃貸に元カレと二人で住んでいたから余計にそう感じるのかもしれない。自分以外の気配のない空間でテレビから聞こえる音声だけが空しく響く。

 起きていてもどうせ会えないんだからと、いつもよりも早めに自分の部屋へと移動する。新しく買い揃えたベッドとチェストと、毛足の長いラグ。この家に穂香が選んだ物が増えていくのはちょっと嬉しかった。だって、ここにはまだ川岸の元カノが置いていった物がたくさん残っていて、目に付く度に「別れた男を結婚式に平然と招待する女」のことを思い出してしまうから。

 朝、目が覚めた穂香はリビングのソファーから川岸の長い足がはみ出ているのを見つけてギョッとする。あんなに話し合って夜はちゃんとベッドで寝ると約束したはずなのに、スーツの上着を脱いでネクタイを外しただけの恰好でソファーの上で寝てしまっているのだ。いつ帰って来たのかは分からないけれど、シャワーを浴びる余裕もなくここで力尽きてしまったのだろうか。

「も、もうっ、ちゃんとベッドで寝ないとダメだって言ったでしょう⁉ こんなとこに寝てても身体は休まらないですよっ!」
「ん、んん……」

 身体を揺すって叩き起こすと、目元に疲れの残る川岸が気怠そうに唸りながら半身を起こす。覇気が薄れ少し陰のある雰囲気を醸し出していて、それはそれで色気があるなと一瞬見惚れかけた穂香だったが、今はそういうことじゃないと心の中で首を横に振る。第二ボタンまで外されたワイシャツの乱れについ翻弄されそうになる自分が悔しい。顔がいい男は何をやっても様になる。

「ああ、おはよう」
「おはようございます……じゃないです。新店のことで忙しいのは分かるけど、もうちょっと早く帰ってきて、ちゃんとベッドで寝ないと」

 朝一からの恋人の小言を川岸は「分かった分かった」とちょっとうんざりした顔で頷きながら流そうとする。それには穂香も少しカチンときて、「もう知らないっ!」と洗濯機を回すために洗面所へと移動する。
 最近はやっと顔を見れたと思ったら、こんな風に剣悪な雰囲気になることが少なくなかった。