「今日、夜は雨らしいんで、折り畳みを持って行った方がいいかもです」
「分かった」
「ちょ、ちょっ、オーナー、鍵忘れてますってばっ! 傘持ったからって鍵を置いてってどうするんですかっ」
「あ……」

 折り畳み傘が掛けてあったフックへキーケースがおもむろに掛かっているのに気付き、玄関前で穂香が慌てた声を出す。戻って来た川岸にキーケースを手渡してから、腕を伸ばしてネクタイの歪みを直しながら小言を言う。

「もうっ、出掛ける前には鏡見る癖付けないとダメですよ」
「ちゃんと見てるつもりなんだけどな……」

 他人の服装の乱れには目ざといくせに、自分はいつもどこか抜けている。それを愛らしいと思うか、いい大人が情けないと思うかは人それぞれだ。少なくとも元婚約者だった人は、後者だったのだろう。反対に、穂香は自分がこんなに世話好きだったのに気付いて意外に思っていた。母性本能というやつだろうか、川岸の方が年上なはずなのになぜか放っておけない。

 休日の朝、絶賛居候中の穂香は家主を無事に見送った後、連勤で出来なかった掃除と洗濯をまとめてこなすようにしていた。自身に関することには抜けが多いけれど、川岸も一通りのことはそれなりに出来る。料理は単に後片付けが面倒だからしないだけらしい。駅前のコンビニが冷蔵庫代わりだと照れ笑いして言っていた。いつも朝に食べているパンも牛乳もほとんどそこで買っているらしい。
 互いに休みの日に掃除機をかける程度だったが、夜逃げした元カレはそれすらもしてくれなかった。家事どころか、家賃も光熱費も全て穂香に丸投げだった。

「なんであんなのと付き合ってたんだろ……」

 いつか起業して経営者になる、と熱く語っている姿に、幻想を抱いていたのかもしれない。起業したら結婚しようという甘い言葉を信じてしまっていた。結婚という単語を出されてしまうと、いろんなことに目を瞑ってしまい現実が見えなくなっていた。
 でも、実際の経営者である川岸のことを傍で見ていれば、栄悟には絶対に無理だと分かる。具体的に何かをやりたいのではなく、単に肩書が欲しいだけの薄っぺらさ。手切れ金代わりにしてはいろいろと持ち去られてしまったが、離れられて良かったとさえ思う。あのままズルズルと関係を続けていてもロクな結果にはならなかったはずだ。

 夜になり、玄関の鍵が二回開く音が聞こえてくると、少しホッとする。この家は一人で過ごすには広すぎる。オーナーの帰宅を心底喜んでいる自分に気付いて、穂香はそれを否定するよう首を横に振った。

 ――ここには、そういう対象で置いて貰ってるんじゃないんだから。

 ネットカフェで寝泊まりしている部下を放ってはおけなかっただけだ。穂香じゃなく、他のスタッフがそうだったとしても、川岸は同じように家に連れて帰ってあげただろう。自分だけが特別なんじゃない、勘違いしてはダメだと己に言い聞かせる。