瀕死の状態である曹叡が見たものは、

甄貴『私は愛する人と共に…
平穏無事な毎日を過ごしたいだけなのに…何故このような事に…?』

曹叡『母上?』

曹叡…字は元沖と曹鷲…字は万姫をこの世に産んだ母親・甄貴…字は桜綾《ヨウリン》が感じていた絶望と悲しみだらけの世界でした…。

遡ること39年前の
西暦200年07月07日。

この日鄴城では
あるひと組の夫婦が
祝言を挙げていました…。

すると…

田豊「しかし…私は軍師なのに…
何故殿の次男であられる若君の婚礼の仕度を手伝わなければならないのですか?」

小雨の降る中、祝言の仕度について
袁紹軍の将軍である文醜に対して…
何やらブツブツ文句を言っているのは

文醜「祝言の仕度くらい手伝っても
良いと思いますが…ダメなのですか?」

袁紹軍の中でも飛び抜けて知識が深く主である袁紹に対してもズバズバ物を言う軍師・田豊でした。

田豊「軍師は戦に備えるもので
主の小間使いではない…。」

すると…

劉軫「では…聞かせて頂きたいのですがどうして女ばかりが仕度をしなければならないのですか?」

田豊の言い草についつい文句が出てしまうのは袁紹の正室である劉軫…
字は蓮花《リェンファ》なのですが…

袁紹「おい、少しは落ち着かぬか?
小龍が傾国の美女を妻として迎えたのだぞ…?」

祝言を挙げしばらく経っても…
旦那である袁紹を溺愛しているのですが最近の悩みは…そんな愛しき袁紹から「なぁ」だの「おい」だのと呼ばれてしまう事でした。

劉軫「おいではございませぬ…
小龍、妻をおいとかなぁとか呼んではなりませんよ?」

劉軫からチクチクと嫌味を言われた
袁紹は何やら体裁が悪そうな顔をしてはおりましたが…

袁紹「それはともかくとして…傾国の美女と祝言を挙げるとは、小龍はなかなか気骨があるではないか…見直したぞ、なぁ?」

いきなり袁熙の事を誉め出し…
何とか話を変えようとしました…。

袁熙「父上から誉めて頂けるなんて…
幸せ過ぎるくらい幸せでございます。
しかし…俺も…桜綾から選んで貰えるなんて思いもしませんでした…」

その袁熙は甄貴の隣で
顔を赤らめながら照れていました。

曹叡『もしかして
この人が朕の父親なのか…?』

曹叡が感慨深げに
袁熙を見つめていると…

劉軫「それはともかくとして…
私の字は蓮花《リェンファ》で
なぁなどという名前ではありませぬ…なぁだなんてあんまりです…。」

またしても自分が1番の劉軫が
皆の言葉を遮ってしまいました。

すると…

袁紹が何やら不満げな顔をしながら…

袁紹「そなたなどなぁ…かおい…で構わぬ。今更蓮花《リェンファ》などと字で呼べるはずがなかろう…何なら
おい…なぁ?などと呼ぶのは…」

劉軫「なしです!殿!」

袁紹を溺愛している劉軫は、
名前で呼ばれたい気持ちが暴走し…

袁紹「儂の耳を…壊す気か…?
儂の鼓膜が悲鳴を上げておるではないか?」

袁紹の耳元で吠えてしまったため、
袁紹の耳は暫しの間…

〈キーン!〉

重低音の耳鳴りが
響き続けておりました。

袁熙「桜綾、すまない…。
父と母は、大体いつもこんな感じなので決して喧嘩をしている訳ではないのだ…」

袁熙は甄貴に対して懸命に…
状況説明をしましたが…

甄貴「私も我が君と末永く仲良く過ごしたいと思っております。」

喧嘩する程仲が良いと思っているのか…それとも若干天然が入っているのかは定かではありませんが…

袁尚「母上の耳鳴り口撃は、
ものすごい破壊力なので兄上がお気の毒ですから決してお勧めしません…。」

美人には弱い袁尚も甄貴の言葉には、
若干あきれていました。

そんな甄貴の夫となったのは、
袁熙…字は小龍《シァォロン》

袁紹と劉軫の間に産まれた次男で
年齢は甄貴より4歳上の21歳。

性格は…

袁熙「傾国の美女と呼ばれる桜綾がまさか俺に惚れるだなんて…奇跡としか言い様がありませぬ…」

家の名声ばかりを頼りにしている袁紹と自分ばかりが1番の劉軫とは違い…控えめで地に足のついた堅実な性格をしていました。

そのため、

甄貴「奇跡だなんて我が君の
人望がなせる技でございます…」

傾国の美女との呼び声が高く
年頃になると溢れるくらい恋文が届いていた甄貴…字は桜綾《ヨウリン》と祝言を挙げる事が出来ました…。

但し…

恋敵《ライバル》は意外なところにいるものでございまして…

袁尚「義姉上《あねうえ》様とは一応口には致しますが我らは同い年です。」

袁紹の3男であり甄貴とは同い年ではあるものの義弟となった袁尚…字は顕甫は極めて不服そうな顔をしており…

袁熙「顕甫が我慢してくれたお陰で…
今の幸せがあるのだから俺は顕甫に感謝しても足りないくらい感謝しているんだ…。」

言葉と態度で甄貴に対する想いを感じとった袁熙はいつもより丁寧に言葉を選びながら弟に声を掛けました。

袁尚「だったら…
義姉上は兄上にお譲りしますので…
万一家督の話になった時はその権利を俺に譲って下され。」

現金な目をキラキラ輝かせて
交渉するのでこれには
さすがの袁紹も…

袁紹「…縁起が悪いではないか?顕甫、兄が祝言を挙げた日にそのような話をするでないわ!それに…儂はまだあちらには逝かぬぞ…」

縁起が悪いと怒りを露わにしましたが
そんな事など気にも止めない袁尚は、

袁尚「俺も早く
誰かと祝言を挙げたいなぁ…」

独りだけ気持ちを盛り上げながら
何故か東の空を見つめていました…。

そんな袁尚を見ていた袁熙は、

袁熙「顕甫みたいな無邪気な子どもが
産まれたら俺はとても幸せだ…」

将来こんな感じの子どもが欲しいと、
まだ見ぬ未来に想いを馳せ…

そんな袁熙の隣に寄り添う甄貴は、

甄貴「私は我が君のような素敵で地に足のついた男性のようになって貰えたらそれこそとても幸せに感じます。」

最愛の人に似て素敵な男性になるようこちらもまた想いを馳せました。

曹叡『母上は本当に父上の事を愛しておられたのですね…』

曹叡が母の願いと母の想いを感じながら切ない気持ちになっていると…

袁紹「盛り上がっているところ、
申し訳ないのだが…小龍には幽州の役人を頼みたいと思っているのだ…」

夢と理想に想いを馳せるのは個人と夫婦の自由ではありますが袁家を巡る情勢に関しては極めて悪化しており…

田豊「いつ決戦になるか分かりませんがもし曹操と我が君が戦うならば幽州は重要拠点でございますからな…」

幽州《ゆうしゅう》とは異民族である烏桓族と袁紹が治める河北との国境にある州で極めて重要な場所です。

何故なら…

曹操のいる許都から烏桓を攻めるならば幽州を平定しなければならないので
烏桓からすれば幽州を袁熙が守るなら壁のような存在となりそこにいるだけで庇護されているようなものです。

それに…

蹋頓《とうとん》…烏桓の実質的な指導者とは懇意にしている事もあり…

袁熙「私は…
幽州に役人として参ります…。」

袁熙は袁家の為になるのなら…と、
幽州へ向かう事を承諾しましたが…

袁紹「…申し訳ないのだが…桜綾は鄴へ置いて単身幽州へ赴任して貰えぬか?」

袁紹は更に袁熙を追い込む話を告げ
甄貴の事を誰よりも愛する袁熙は、
背筋が凍りつくような感覚を感じ…
少しの間その場で固まりました…。

しかし…

袁紹の意見を否定するなど
袁紹の子どもとしては…やってはならない事であると母親の劉軫から幼き頃より言われ続けてきた袁熙からすると

袁熙「幽州はいざ戦となれば最前線となる場所ですから桜綾の事を考えたなら鄴城にいる方が安心ですね…」

心とは裏腹の言葉を口にしてでも
甄貴の心を深く傷つけたとしても
してはならない事柄でした。

袁紹「さすがは小龍である。
我が家の龍はなかなかに聡き子ぞ。」

袁紹は自分の思い通りに動く袁熙を誉めるのですが甄貴からすれば…

甄貴『我が君は…私よりも父上の御言葉に逆らわない方が大切なのね…』

祝言を挙げたばかりだというのに…
単身赴任だなんて理不尽な条件を
あっさり飲み込んでしまう袁熙に対して憤懣やるかたない状態でした…。

但し…

袁熙は暇を見つける…否、暇を作っては幽州から鄴城へと度々帰って来るので甄貴もそれ程寂しくは感じず…

甄貴「我が君は私の事を愛して下さるのでとても幸せを感じております。」

袁熙「幽州で役人として働きながらも
いつも考えているのは…桜綾の事だ。」

甄貴「私も
我が君の事をお慕いしております。」

順調に愛を育んでいた
袁熙と甄貴でしたが…

運命というものは…残酷でした。