ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました

 アンバサダーである杏子が主になって施術を行っているセレニテは、連日訪れる客がまた客を呼ぶ人気店となっている。

 まだネットの取り扱いがないフロレゾン初のヘッドスパ専用ヘアケア製品を、日本で初めて取り扱う店という事もあって、施術の予約が取れずとも全国からフロレゾンファンが殺到した。
 そして、予約のみの取り扱いで店に置いたホームケア製品は、文字通り飛ぶように売れたのである。

「明日からは、とうとう全国の美容室で販売されるんですね」

 高層マンションの最上階、そのバルコニーから外の景色を眺めていた杏子は、隣に立つ統一郎を見上げる。少し前に洗い上がったばかりの杏子の黒髪が、都会の明るい夜空に溶け込むようだった。

「杏子さんと高山が、アンバサダーとして充分に活躍してくれたお陰ですね」
「高山店長と統一郎さんが長年積み上げて来た(プロジェクト)を、私がほんの少しお手伝いしたに過ぎないでしょう」

 もう杏子は知っていた。高山から全てを聞いていたからだ。
 杏子と出会う何年も前から、統一郎は高山とこのプロジェクトについて何度も何度も、それこそ眠る暇すら惜しんで話をして来た事を。

 フロレゾンのヘッドスパ専用ヘアケア製品を使って、ヘッドスパに特化したサロンを開く。元は父親と違ったやり方で経営をしていきたいという高山の発想だった。
 同じ老舗の跡取り同士、話が合うところのあった統一郎と高山のかつての夢物語。

「……知っていたんですね。すみません、杏子さんに隠し事をするような結果になってしまって」
「いいんです。私にとっても、とても幸せな仕事ですから。高山店長、統一郎さんとの思い出話をしながら泣いちゃって。よほど感極まったんですね」

 今日の打ち合わせ後、思い出すだけでもらい泣きしてしまいそうになる程、嗚咽を漏らす高山は統一郎との思い出や素直な気持ちをすっかり杏子に吐露したのだった。

 杏子は統一郎の直線的な頬に手を伸ばし、彫刻のような輪郭を撫でる。
 統一郎の目が優しく細められた。

「高山の、あのお節介で熱い性格に過去の僕は何度も救われたんです。本人はそうは思っていないでしょうが。だからこそ、今回の成功には心底ホッとしています」
「そんなに大切なプロジェクトに、何にも知らない私がお邪魔してしまったんだと知った時の気持ち、統一郎さんに分かりますか?」
「すみません。僕が高山に頼み込んだんです。一目惚れした杏子さんを、どんな手を使ってでも手に入れたくて」
「もう! その言い方、何だか怖いですよ」

 言いつつ統一郎を見つめる杏子の眼差しは柔らかい。
 フロレゾンのシャンプーとトリートメントの香りが、都会の喧騒から二人を守るように周囲を包み込んでいた。

「すみません」
「謝らないで。私、感謝してます。統一郎さんが私を望んでくれて」

 ここは高層マンションの最上階、二人の姿を見る者はいない。軽い口付けを交わした後に杏子は言葉をつづけた。

「ねぇ統一郎さん、今回のヘアケアブランドの名前……『アン』の意味って『一つの』って意味だって教えてもらっていたけど、元は違った名前に決まってたって本当ですか?」

 鼻を赤くした高山から最後に聞いたのは、今回のヘッドスパ専用ヘアケアブランドの名前の由来。
 フランス語で数字の『一』とか、『一つの』という意味だとは聞いていたが、高山が暴露したところによれば急遽統一郎が名前を変更したのだとか。

「『杏子(あんこ)』の『アン』だって、高山店長が……」
「……っ、高山のやつ、黙っているように口止めしてたのに」

 いつもは冷静沈着な統一郎が、珍しく慌てた様子を見せた事が愛おしい。
 杏子は統一郎の髪を撫で、そっと顔を近付ける。拒絶を恐れずに自分からそうするも、もう何度目だろう。

「統一郎さん、私をあなたの妻にしてください。こんなに素敵なあなたも、これからは私だけのものにしたいの」

 真っ白な月明かりの下で、二人の影は元から一つだったかよように自然と重なり合った。