創痕の花嫁と冥府の王

 ふ、と意識が浮上する。ぼやけていた視界が少しずつクリアになる。ラビアは緩慢なしぐさで体を起こしたが、目の前に何かがいるのが分かると素早く態勢を整えて腰に手を伸ばした。だがそこにナイフはない。それどころか彼女がいま身に着けている服はあの豪奢な婚礼衣装だった。周囲をに視線を巡らせれば、公爵令嬢にはそこが死の神クジャト神の祭祀場の洞窟であることがすぐにわかった。彼女が横たわっていた大きな祭壇の前には豪奢な花嫁道具に宝飾品、溢れんばかりの花々やカゴに盛られた果実に絹布、細工も見事な楽器が置かれている。
 意識が途切れた時のことを思い出し、事情を理解した生贄の乙女は顔をゆがめて左手を握り、奥歯を強く噛みしめた。青い瞳から大粒の涙がこぼれる。だがそれをそっとぬぐう大きな手があった。目の前にいた何かの手だ。
「どこか痛いか? 怪我などは無いと思うのだが……」
 頭上から男の声が降りかかった。ラビアはゆっくりと顔を上げ、目を見張った。そこにいるのは明らかに人間ではない男だった。何せ身の丈はラビアの倍ほどもあり、4本の腕が生えている。そのうえ目の部分の本来白くあるべきところは黒く、瞳は黄金色をしている。漆黒の髪は腰に届くほど長く、身にまとうのは黒い装束。そして何より、絵にかいたような美男だった。
 初めて見る男、否、存在だ。だが、ラビアはその名を知っている。
「冥府の主、死の神、クジャト神であらせられるか?」
「うむ、この俺こそ冥府の主、生死の境の番人、死の神、古き神々の子にして古き神々を(ほふ)りし者、大海神の弟、そしてそなたの夫となるクジャトである」
 震える声で紡がれる問いかけに、巨漢は実に堂々と答えてニコリと笑った。無邪気さすら感じさせるその笑みに、ラビアは泣くことも言うべき言葉も忘れてしまう。そもそも神などという存在と対面するとは思っていなかったのだ。否、大前提として……。
「あの、私、死にましたか?」
 間の抜けた問いだった。だが当人にとっては重大な問題だった。死の神クジャトの花嫁になるとは要するに死ぬことだったはずだ。少なくとも母国ではそう認識されている。だが、今のラビアには意識がある。こぼれ落ちた涙の熱さも、それをぬぐう手の温みも感じていた。
 戸惑う彼女に反して、当のクジャト神はあっけらかんと答えた。
「うむ、既に死んでおる。冥界的には死者のカウントだ、現世には戻れぬ。この祭壇に捧げられた時には既に毒で死んでおったのでな。俺の権能で蘇生させて加護を与え、俺と共に過ごせるようにしたぞ」
「死者扱いでもう現世に戻れなくて、でも蘇生をした?!」
 何でもアリにもほどがある、という言葉をラビアはぐっと飲み込んだ。議論するだけ無駄、だからこそ神なのだ。毒気を抜かれた人の子は4本腕の巨漢を見つめて途方に暮れた。だがそんな彼女に構わず、死の神はあの無邪気な笑みを浮かべて朗々とした声で言い放った。
「祭祀を執り行った神官が言っておった、そなたの名はラビア、俺の花嫁だと。己の妻を見殺しにする阿呆がどこにいる!」
 そのまま4本の腕で豪奢な婚礼衣装に身を包んだ赤茶の髪の乙女を抱き上げる。その勢いに公爵令嬢らしからぬ素っ頓狂な声が出たが、人の埒外にいる巨漢はそんな彼女の反応にすら嬉しそうに目を細め、大きな手でラビアの傷のある頬をそっと撫でた。これには気丈な乙女も赤面し、それをごまかすように口を開いた。
「ですがクジャト神、とつぜん花嫁をやるだなんて言われてはお困りでしょう。人々が性悪女を持て余してあなたに押し付けたのかもしれませんよ?」
「それを自分から言う者を性悪と呼ぶのは難しかろう!」
「……ええと、自分で言うのもなんですけど、私が持って生まれた魔法は攻撃的で危険なものです。クジャト神にご迷惑をおかけするかもしれません」
「なに、この神の前では些事であることよ!」
 歯切れの悪い言葉に神は呵々大笑し、祭壇に腰かけた自身の膝にラビアを乗せた。
「なあラビアよ、この冥府には他の神が立ち入れないことは知っているか?」
 公爵家の末娘は黙って首を縦に振った。
 死者の魂を洗い清め、生死の境界線を守るために存在するこの冥府に立ち入ることができるのは、死の神とその加護を受けた者、そして死者のみであるという。
「ここには俺の使い魔たちこそいるが、神であり冥府の王である俺と対等に話せる相手はいない。だから俺と対等な、冥府の女王としてそなたが一緒にいてくれると嬉しいし心強い。……一人は寒いからな」
 そう言って、冥府の神は大きな手でラビアの手をそっと握って苦笑した。くしゃりと歪んだ美しい顔と、金の瞳の僅かな潤みを見つめながら彼女は思い出す。ある日突然住まうことになった国一番の大貴族の屋敷の不安になるほどの広さ。穏やかだがどこか傲慢な長兄の物言い、苛立つ長女の声の響き、第二夫人の金切り声。一人きりの食卓。「卑しい踊り子の娘」と仲良くしてやろう、だなんて親切な貴族はいなかった。衆目を浴びながら、嘲笑を受けながら、彼女はただ一人立っていた。その時の薄ら寒さを彼女は良く知っている。
(でも、母さんや父さま、リパ姉さまが一緒の時だけは温かかった)
 ラビアは顔を上げてじっと死の神を見つめる。胸の奥がじわりと熱を持った。彼女の視線をどう解釈したのか、クジャト神が自身の額とラビアの額をじゃれるように触れ合わせたので、ラビアはパッと顔を赤くした。
 不意にクジャト神はラビアを4本腕で抱えたまま立ち上がった。その大きな影から使い魔の黒い犬やカラスたちが這いずり出て、周囲に置かれていた捧げ物や花嫁道具を器用に持ち上げた。
「とはいえ、突然こんなことになって混乱している者に結婚を強要するのは道理に反するというものだ。花嫁だ結婚だという話はひとまず忘れてくれ、現世に心残りもあるだろう」
 すまんな、という謝罪にどう答えるべきか少し悩んでラビアは苦笑する。
「父と、一番歳の近い姉のことだけは気になりますが、その程度です」
「……なあ、そなたさえ良ければ冥府の客将として俺の仕事を手伝ってはくれまいか? 攻撃的な魔法を使うならなおのこと頼みたい」
「客将とはまた身に余る光栄ではありますが……私の魔法が役に立つと?」
「この俺が言うのだから間違いない!」
 首をひねるラビアに、黒と金の目の神は顔いっぱいに自信と確信をみなぎらせて首を縦に振った。その表情を見つめながら、公爵家の妾腹の娘は数年前のことを思い出す。あの時、豪奢な部屋の中で、床に額をこすりつけたラビアの母は、ラビアが長女ティエナと次兄に怪我をさせた責任を問われて第二夫人に鞭打たれていた。両親とリパ以外の誰もが彼女の魔法を「人殺しの魔法」とさげすんだものだ。
 ラビアの左手が無意識に拳を作る。触れ合った皮膚が白くなる。だがそれを見逃さず、冥府の神は大きな手で小さな拳にそっと触れてその強張りをほどかせ、囁くような声で言った。
「そう力を入れては痛かろう」
 その響きというと泣き出す前のそれで、自分のことでもないのに、とラビアは口元に微笑をひらめかせた。人間よりも人間臭いのがおかしかったのもある。だから、その言葉は自然と彼女の口から発せられた。
「ではクジャト神、このラビア、我が“刃の魔法”を以って最大限クジャト神にお力添えいたしましょう」
 清々しい声で紡がれたその言葉に、冥府の神はありがとう、とひとつ笑うと祭壇に刻まれた文様に手をかざした。祭壇全体が光を放ったかと思うと、次の瞬間、目の前には広大な草原が広がっていた。だが孔雀色の草原の上、頭上を覆う空は淡いピンクと紫の交ざったような色で、星の群れに混ざって水色の月が3つも浮かんでいる。冥府の王は向こうの地平に建つ白い大きな神殿のようなものを指さした。
「あそこが俺の居城だ。……我が客将殿、その恰好では動き辛かろう。ひとまず動きやすい服に着替えるのが良いか」
 言われて、豪奢な絹布の花嫁衣装に身を包んだ乙女は大人しく首を縦に振った。
 死の神クジャトの居城は、主人の巨体に合わせて調度品も何もかもがラビアの想定より一回り大きい。居城から現れた犬の顔をした背の高いメイドに驚く間もなく、彼女は大きな鏡台のある部屋に通された。
 クジャト神の使い魔の一種、と自己紹介した陽気な女中に差し出された服に着替える公爵令嬢の身体は凄まじいものだった。頬はもちろんだが、胸や腹、肩や二の腕には様々な傷痕が刻まれていた。だがそれとは対照的に、背中にはかすり傷ひとつもない。
 屋敷を逃げ出す時に着けていた宝飾品を外し、着替えの中にあった背中の大きく開いたキャミソールを着て、ラビアは苦笑する。
(死んで生き返っても古傷はそのままか)
 思い返してみれば、国一番の大貴族の末娘などという大層な肩書を持ったラビアが貴族社会にうまく馴染めないどころか年を経るごとにそこから疎外されていたのはこの傷のせいでもあった。とはいえ、傷の原因の半分は彼女自身なのだが。
(でも、あの時の私は間違ってなかった。私の人生は誰かに馬鹿にされるためにあったわけじゃないし、怒らないといけないときに怒れないんじゃ生きてる甲斐が無い。……大丈夫、この傷は忌むべきものじゃない。)
 自分に言い聞かせて、さっきクジャト神がそうしたように、また無意識に握りこんでいた自身の左手を右手で撫でる。いつまでそうしていたか、部屋の外からあの犬のメイドの伸びやかな声が聞こえてきた。
「ラビア様、お渡ししたお召し物の具合はいかがでしょうか。大きさや材質に問題ございますか?」
「あっ、着替え終わりました! サイズもぴったり、動きやすいです」
 シンプルながら丁寧な刺繍の施された半袖のシャツと、揃いのデザインのズボン、それから足首で紐を結んで固定する革製のサンダル。一式を身に着けたラビアの姿を確認すると、黒い毛の女中は三角の耳を前後にぴくぴくと動かしながら笑みを浮かべて後ろに控えている主人に声をかけた。ひょこりと顔をのぞかせた4本腕の神の視線を受けて、ラビアは上衣の袖から覗く右腕の火傷痕をさすった。恥じることは無いと言い聞かせていても、緊張が彼女の全身を強張らせた。だがクジャト神は鷹揚に笑い、廊下に置かれたソファに腰かけて立ち尽くすラビアを手招きする。ラビアが視線をさ迷わせながらそれに応えると、クジャト神は彼女の肩にケープを乗せて何でもないように言った。
「少し冷えるかもしれん、これを着ておくと良い。あり合わせの服ですまんな、ひとまず今はそれで我慢してくれ。好みもあるだろうから、そなたの服はまた後で作らせよう」
 大きな手が首元のボタンを器用に留めた。
 しばしの沈黙の後、サンダルを履いた自分の足を見つめた公爵令嬢の末娘は小さな声で苦笑交じりに問うた。
「気持ち悪くはありませんか? 私、腕以外もあちこち傷だらけなんです。姉たちと争った時にできたものなんですけど」
「そうか! 血のつながった者と対立した証と言うなら、俺とお揃いだな!」
 返事は間髪入れず、そのうえ神らしからぬ無邪気さと元気さで発せられた。冥府の主、死の神などと大層な肩書を持つ巨漢は脇腹のあたりから伸びるもう一対の腕をぱたぱたと忙しなく動かした。
「俺のこっちの腕はな、生み親である古き神を殺した時に彼らから受けた呪いで生えてきたものだ。それもなぜか兄弟姉妹の中で俺だけ! いやまあ俺が古き神殺しの主犯だからだろうが。人間たちには定期的に虫のようでおぞましい、などと言われる」
「……おぞましい、ですか? 魔法のようだとは思いますが」
 何せ、神話に曰く怪力無双の4本の腕でラビアを抱えて傷一つ付けなかったし、大きな手で器用にケープのボタンを留め、ラビアの強張る手をそっと撫でて緊張を解いた。器用な腕だ、と素直に思う。
「そうか! この腕はな、俺の誇りでもある。俺たちを生んだ古き神々は、まだ何もできない幼子だった俺たちを牢獄に閉じ込めて言ったんだ。『お前たちの強さはいずれ我らの玉座を脅かすに違いない。故に閉じ込めておく』とな。とんだ理不尽だ、古き神々が許せなかった。だが一番許せないのは、自分がそんな理不尽に屈して大人しくそれを受け入れることだった。この腕はその俺の反抗の証左なのだ」
 喜色満面のクジャト神に見つめられて、今度はラビアが昔のことについて喋る番だった。
「私は兄妹たちとはあまりそりが合いませんでした。長兄はそもそも私に関心が無かったようでしたが、その妹である長女は私が気に食わなかったみたいです」
 ある日突然公爵家に住み始めたラビアを真っ先に目の敵にしたのは長女ティエナとその弟だった。公爵家当主の座を狙うにあたって、障害になると判断したのだろう。幼いラビアは何かと突っかかる野心家の姉たちに苛立ちを募らせながらも、彼女らのしたいようにさせていた。彼女らの母である第二夫人が自身の母に向ける敵意がエスカレートすることを恐れていたのだ。だが2年も経つ頃に、そんなラビアの我慢は限界を超えた。決定打は母を侮辱されたことだった。
 元は王都の片隅のスラム街に住み、「やられたらやり返す」を徹底し、周囲の子供らと協力して自慢の「刃の魔法」を用いて我が身と美しい踊り子の母を守ってきたラビアである。暴力の権化というべき魔法を振るって相手を脅す行為に躊躇は無かった。だが長女と次男の手痛い反撃を食らった挙句、屋敷は一部損壊。この一件で公爵家全体が貴族街の嘲笑の的になった。長女や次男も怪我を負ったが、一番の被害を受けたのはラビアの母だった。たまたま当主不在だったのを良いことに、子供の躾がなっていないと第二夫人に責められ、ひどく鞭打たれることになった。
 父の帰宅で事態は収まり双方の母が接触しないように配慮されたが、ラビアと長女ティエナ一派にはわだかまりが残った。母親たちが亡くなるとティエナ一派は公爵家次期当主の座の奪取に本腰を入れラビアには見向きもしなくなったが、それまでの数年間は親たちの目を盗んで末の妹を完膚なきまでに叩きのめそうと苦心していた。 
 そんなラビアのとつとつとした語りを聞き終えると、クジャト神は四本の腕で彼女を抱きしめた。思いがけない抱擁にラビアは一瞬目を見開いたが、クジャト神はそのまましばらく黙って彼女を抱きしめた。そして大きな手で彼女の肩や左頬の傷を撫でて、優しくも誇らしげな声で総括した。
「つまり、この傷もまた反抗の証左であり、そなたの武勇の誉れというわけだ」
 そう言った顔があまりに清々しい笑みを浮かべていたので、一瞬ポカンとしたラビアもつられて笑った。偉大な反逆者が腰を上げて脇腹のあたりから生えた手を差し伸べたので、小さな抵抗者はその手を取って歩き出す。白い大理石でできたエントランスの外には孔雀色の草の海が広がっている。
「それにしても、私でも着られる大きさの服があるとは思いませんでした。その、クジャト神は大きくておいでなので」
 ラビアが言うと、冥府の王は「そうだなぁ」とのんびりした口調で返事して握った手にわずかに力をこめた。そのままクジャト神に誘い出されて、彼女の脚は背の高い草原をかき分ける。どうやら居城の裏手を案内してくれるらしい。
「その服は、大昔に俺へ花嫁として祭壇に捧げられた乙女たちが嫁入り道具のひとつとして持参していた服だ」
 語り出しはやや唐突だった。するりと手を離して振り返りもせず少し前を歩く死の神クジャトの言葉を一言も聞き漏らすまいと、生贄の乙女は口をつぐんで目の前の大きな背中を大股で追いかける。
「もうずいぶん昔のことだが、そなたがそうであったように、俺に対して花嫁が捧げられたことが何度かあった。その彼女たちが、いらないからと置いて行った」
「……置いて行った?」
 吹き付けた風に煽られて孔雀色の草たちがざわめいたが、冥府神の耳は傍を歩く小柄な花嫁が零した声を拾い上げた。
「これまで捧げられた乙女たちは皆、半死半生だった。俺は生死の境を守る者であって、生ある者を死に引きずり込む者ではない。それ故、まだ命のあった彼女たちを介抱し、現世に送り戻した。愛の神や幸運の神が探し出した、彼女らが快く住める場所にな」
 また風が吹いて、死んだ状態で祭壇に捧げられた乙女の服のすそをはためかせる。火傷痕のある二の腕を抱擁して通り過ぎる冥府の風は不思議と温かく心地よい。
「彼女らは皆例外なく、家族や仲間内に排除されて俺の元に贈られてきていたようだったからな。元居た場所とは違う場所に送り出したが、その時に本人たちがもう必要ないから好きにしてくれとここに置いて行ったのがその服だ。……情けないだろう、花嫁になってくれるはずだった者たちの物をまだ捨てられないでいる」
 振り返ったクジャト神の顔は、迷子の子供を思い出させた。泣き出しそうになるのを無理にこらえようとして、いびつな笑みを浮かべている。それを見ていられず、ラビアはクジャト神の腕を引いて彼の傍に身体を寄せた。
「……私は、どこにも行きませんよ」
 左頬の刀傷をそよ風に晒されながら、赤茶の髪の生贄の乙女はクジャト神を見上げる。それから肩をすくめて鼻で笑った。
「それにしても、クジャト神への花嫁としてささげられた人間の中で、完全に死んでいたのは私だけ? それって、目的のために手段を選ばず迷いもしない長兄殿たちを賞賛すべき?」
 返事を求める類の言葉ではなかったらしい。ラビアは「見事な度胸だこと」と吐き捨ててからもう一度クジャト神を見上げた。
「それで、私に頼みたい仕事があるんでしたよね」
 その青い瞳も声も、力強く澄んで迷いがない。冥府の神はラビアの手を引きながら、向こうの方をを指さした。
「あの大地の亀裂が見えるか? あの下が死した者たちの魂の通り道になっている。知っての通り、死者たちの魂はあの路を通り、その奥にある冥府の川で生前の記憶と罪を洗い流し、その後、現世に送られて新たな生命として転生する。だが厄介なことに、全ての魂が大人しく洗われてくれるわけではない。生前に築いた地位や富、現世の快楽に執着し、現世に戻ろうと大暴れする者もいてな」
「つまり……私の役目は、現世に戻ろうとする魂を取り押さえること?」
 客将の言葉に、冥府の王は満足そうに一つうなずく。
「俺は基本的に魂への裁きの判定や川の見回りにかかりっきりでな、どうにも手が足りん」
 ほら、とクジャト神が大地の裂け目に出来た巨大な渓谷を指さした。壁面に生えた水晶のような石がぼんやりと光を放ち、暗い渓谷を照らしている。その一番底を、人型をした半透明のものが列をなしてがふわふわと前進している。時折列を外れようとする者がいれば、黒い犬が吠えて列に戻させる。
「あのちょっと透けてる人たちが魂ですか?」
「その通り。生前に重い罪を重ねた者はこの冥府でしばしのあいだ罰を受け、それが終わり次第、他の魂に混ざって川で洗われる。……ほら、あれがこれから現世に転生する魂だ」
 地の底を指していた指が上に向かって滑り、遠くにある火山のような山を示した。その頂からぽこぽことシャボン玉のような丸く透き通ったものが噴き出ている。ふわふわと漂う魂たちは風に乗って遊ぶように空にある月のひとつに吸い込まれていく。その景色にラビアは立ち尽くして見惚れた。
(母さんもあんな綺麗なものになって転生したんだ……)
 青い瞳を輝かせたその横顔を見つめて、クジャト神が微笑む。さわさわと足元で草が揺れてラビアは気持ちよさそうに目を閉じる。だがその穏やかさは一瞬で打ち破られた。居城の方から何やら黒い犬が駆けてきてクジャト神の前でぬるりと立ち上がり、犬面の男に変化して息を切らせて報告した。
「クジャト様、大変です! 先ほどこちらに到着した魂たちが暴れ出して、手のつけようがありません!」
「……さっそく私の仕事ですね?」
 報告を聞くと客将は青い瞳を鋭く光らせて冥府の主を仰ぎ見る。頷いた死の神はラビアを4本の腕で抱え上げ、先導役の黒い犬の後を追って深い渓谷を下へと駆け出した。
「我が使い魔よ、現場の様子はどんな具合だ?」
「騒ぎの中心は現世で因縁があった魂同士で、魔法まで使って戦っています! 魂ですから魔法が当たって消滅したり死ぬことはありませんが、周囲を巻き込んでの大騒ぎになっています。なんでも当主の座をかけて争っていた兄妹で、お互いの仕掛けた罠に誘い出されて死んだとか」
 黒い犬の言葉に、振り落とされまいとクジャト神の服を掴んでいた公爵家の末娘が顔を上げる。胸元で身動ぎする彼女の何か言いたげな表情に気付き、クジャト神は客将の背をポンポンと軽く叩いた。
「無理はしなくて良い。俺が必ずそばにいる」
 囁くようなその声に、ラビアは全身のこわばりが解いて一つ首を縦に振った。
「クジャト様、あそこです!」
 黒い犬の目線の先、渓谷の底の広間のようになった場所で半透明の身体の魂たちがにらみ合いをしている。魂のうち、片方はでっぷりとした腹の男。それに相対する二人組は、細面の女とその従者のような風情の青年である。男が大きな腹を気にしながら勿体ぶった動きで腕を振るった。魔法を使うための予備動作だ。しかしそれよりも素早く、女の方が実体のない指先から炎をほとばしらせて正面の相手にけしかけた。
「兄さまはいつも動作が遅いんですよ! だからこうして私に先手を取られる!」
「だが君の作戦はいつも失敗した。今だってそうさ、ティエナ」
 ゴウ、と強い風が吹いて炎が散った。そこに立った肥満気味の男が疲弊した様子はなく、周囲で見守っていた死者たちがやいのやいのとはやし立てた。しかしすぐさま女の傍にいた青年が嘲笑を滲ませながら、透ける身体で吠えたてる。
「けれど兄さまは死んだんですよ。父さまから公爵家の当主の座も受け取らずに!」
「死んだのはティエナもお前も同じだ! ……くそッ、小賢しいラビアを排除したと思ったら今度はこれか! 家のことなんかほったらかしにしていたリパに当主の座を渡すわけにはいかん。私はお前たちを倒してこんな場所から出ていく、そこをどけッ!」
「ここを出て当主になるのはこのティエナよ! 援護なさい、わが弟。この私の前を遮るのなら、冥府の犬でもカラスでも、たとえ冥府の神であろうとも……ッ!」
 ティエナの言葉は中途半端に途切れた。自分たちを取り囲むように無数の刃に襲われたのだから、それも当然だった。そして何より見覚えのある魔法だった。ティエナも長兄も次兄も顔を青くし、あるいは顔を強張らせてとっさに周囲に視線を巡らせる。そして……彼女を見つけて目を見開いた。
 冥府の風に赤茶の髪を靡かせた彼らの妹が立っている。死の神の隣に、生前と変わらぬ姿で立っている。だがどこかおかしい。そう、「生前と同じ姿」で立っている。透けていない、つまり魂ではない。なぜ? 彼女は「死の神の花嫁」として死んだはずだ。だというのに、彼らとは違う。ただ死したのではない、何か特別なものになっている。それを兄妹の誰もが直感的に感じた。
「ラビアァァァァァアッァアッ!」
 憤怒と怨嗟の交ざった声を上げたのは長女ティエナだった。フワフワした魂になってしまったはずの身体なのに、炎でできた剣を透けるような手に握って、凄まじい勢いで死んだはずの腹違いの妹に斬りかかる。しかしラビアは退くどころかむしろ一歩前に踏み込んで、中空から出現させた剣を構えて灼熱の斬撃を受け止めた。
「ラビア!」
 背後で死の神クジャトが切羽詰まった声を上げたが、武勇の誉れを身体に刻んだ乙女は勝気な笑みを浮かべて剣を握る腕に力を込めた。
「そこで見ていてください、クジャト神! 私がどれだけあなたの花嫁に、冥府の女王に相応しいのか!」
 クジャト神が目を丸くして顔いっぱいに笑みを浮かべた。
 激しい音を立てて、ティエナの身体が後方に吹き飛ぶ。そのまま体勢を立て直す隙を与えず、ラビアは頭上に無数の剣を出現させてけしかける。彼女の自慢、父譲りの「刃の魔法」である。
 姉の傍に駆け寄った次兄が無数の刃の雨を巨岩で防ぎながら、苛立ったように悪態つき、岩の塊をラビアの方に殺到させた。
「花嫁? こともあろうに、お前なんかが神々の一角の花嫁だと?!」
「私をクジャト神に花嫁として差し出したのはあなた方でしょう!」
 死の神の花嫁はティエナにけしかけた剣の群れを呼び寄せて宙に舞わせ、それらを魔法でひとつの巨大な斧に作り替えた。重厚な刃が岩石を叩き割り、冥府の大地がズドンと揺れた。足元に巨岩が落ちると次兄は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。だが長女ティエナが立ち上がった。公爵家当主に相応しいという自負とそのための努力はこの程度のことでひるまない。炎を握りなおして妹の胸ぐらにつかみかかり、彼女がまとうケープを剥ぎ取った。そのまま燃える穂先で刺繍の施された上衣のボタンを引きちぎると、肩口の傷が覗いた。
「こんな醜い身体のお前が、私に一度も勝ったことのないお前が……ッ、お前が!」
 癇癪じみた罵声を上げるティエナを前に、よろめいたラビアは体勢を立て直し、胸元を隠すどころかむしろ上衣を脱ぎ捨てた。キャミソールから露出した白い背が露わになる。小柄な乙女の、小さな背だ。けれど今はそれ以上の存在感をもって衆目に映った。
 公爵家の末の娘はキッと姉をにらみ返した。
「醜くて結構。だけど私のこの背にはかすり傷のひとつも無い! これこそ、私が決して姉さまたちを前にして逃げず屈さず、背後を取られるマヌケをしたことも無い、私の抵抗と武勇の証左。あなた方が本当の意味で私に勝ったことなんて一度もないんだ!」
 ラビアの手が再び剣を握る。怯んだティエナに鋭い剣閃が叩き込まれた。半透明の幽体が大きく揺らいでその場に倒れこんだ。だが息をつく間も与えず、ラビアに鋭い風が叩きつけた。
「筋は悪くないのだがな、どうにもティエナは先手を取りたがる癖がある。私に言わせれば愚策の極みだ。力を出すタイミングを見極めてこそ智者。さあそこを退け、ラビア。私は現世に戻る、父上から当主の座を受け継ぐのはこの私だ!」
 丸い腹をゆすって長兄が笑っている。鈍重そうな身体に反し、繰り出される魔法は鋭く正確。公爵家の次期当主の肩書に恥じない鍛え上げられた技量。だが、その栄光もすでに過去のものだ。痛ましいものを見るように兄を見つめ、冥府の客将は再び剣を構える。
「そこを退くのは兄さまです。ここは死の国、クジャト神のつかさどる冥府なれば。この地にたどり着いた者が現世に戻れぬのは、子供でも知ること!」
 暴風が吹き荒れて、その凄まじさに周囲の魂たちがふわりと浮き上がる。クジャト神が彼らを回収し、使い魔のカラスたちに託しながら剣を振るう花嫁を見下ろした。
 宙に無数の武器を浮かせたラビアは風の抵抗が一番弱い場所を探し出し、剣を握る手に力を込める。手の中の得物に魔力を通して振るうと風を真っ二つに裂けた。その奥にいた長兄が焦った声を上げるが、反撃の間は与えない。慎重さゆえにティエナらの策謀を潜り抜けた長兄は逆に言えば初速に欠けた。
「待て、待て、ラビア! 私が悪かった、私が公爵位を得たらお前を次期当主にしてやるから!」
「ごめんあそばせ、兄さま。私が欲しいものはもうすべて私の中にあるの! さあ、これで終わり! 大人しく転生の列に加わって!」 
 魔力の輝きをまとった剣が渾身の力で振り下ろされた。魂は消滅はしないが衝撃は受けるらしい。膝から崩れ落ちて気絶したようになった長兄や長女たちの半透明の身体を、四本腕の死の神が軽々と担ぎ上げると、すかさず使い魔の黒い犬たちが彼らを回収して奥に連れて行く。手が空いた途端、クジャト神は黒と金の目を輝かせて4本の腕でラビアを強く抱擁して抱え上げた。
「ラビア、ラビア! まったく目を奪われるような見事な口上、見事な立ち姿、見事な魔法だ! 俺が無茶を言って客将なんてものを頼んだ上に、実の兄妹たちを相手にするなどと戸惑っただろうに……」
 冥府の王は無邪気な笑みを浮かべたが、次第に眉を曇らせてうつむいた。その一連の流れをまじまじと見つめていたラビアは頬傷のある顔に微笑を浮かべ、クジャト神の厚い肩に手を置いてごく自然な口ぶりで言った。
「クジャト神。結婚しましょう、私たち」
 死の神がピンと背筋を伸ばし、弾かれたように顔を上げて花嫁を見つめた。だが視線をうろうろとさ迷わせ、良いのか、と小声で問う。らしくない態度に、花嫁はクジャト神の頬を両手で挟んでグイと視線を合わせた。
「良いから申し上げたんです。お返事を頂けて?」
「もちろん、もちろんだ! 喜んで、ああ、是非に! ラビア、我が花嫁、我が冥府の女王よ!」
 ぱっと破顔して明るい笑みを浮かべたクジャト神がその場に膝をついた時、向こうの方にいた使い魔の黒犬やカラスたちが群れになって駆けてきて、一斉に口を開いた。
「おめでたいところ申し訳ないんですが、緊急事態です!」
「冥府の川の穢れが溢れてきています! だから言ったじゃないですかクジャト様、川の穢れ祓いはこまめにしてくださいって!」
「川の傍にいた魂たちは被害が及ばないようにすべて退避させ、我らで押し留めていますが、急いで来て迎撃してください!」
 目をぱちくりさせていた冥府の神は花嫁をその場に留めおこうとしたが、冥府の女王はぐいとクジャト神の脇腹の方の腕を引いた。
「対等な者として一緒にいるんでしょう?」
 冥府の女王の青い瞳が輝いて冥府の王を射抜く。それだけで充分だった。クジャト神は花嫁を抱え上げ、そのまま力強く地を蹴った。凄まじい跳躍だ。時折、あちこちに露出した岩や水晶を足場にして飛ぶように駆け、魂たちの道順の奥へ急ぐ。次第に水音が聞こえ始め、あたりが暗くなった。鍾乳洞のような洞窟に入ったらしい。とたんに視界に(もや)がかかったが、すかさずクジャト神は巨大な鎌を振るってそれを切り裂いた。
「今の靄が、冥府の川で洗い落とした魂の記憶や感情、罪の類だ。これらの穢れは川に溜まるのだが、ちょっとサボるとすぐこれだ」
 だからサボるなって言ってるでしょ、と口々に文句を言う使い魔たちが穢れを引き裂いて充分な広さのある足場を確保すると、冥府の王がそこに立ってラビアを降ろした。靄は意思を持っているかのように宙を動き回り、死の神とその花嫁を取り囲もうとしている。冥府の女王は素早くクジャト神と背中合わせになるように立って剣を構えた。初めての共同作業ですね、と使い魔たちが茶化すと4本腕の巨漢は面白がりながら巨大な鎌を構えて歌うように言った。
「このクジャト、病める時も健やかなる時も、苦しき時も悩める時も」
 大鎌が唸って、靄を蹴散らす。
「このラビア、悲しめるの時も喜べる時も、貧しき時も富める時も」
 冥府の女王の頭上に現れた無数の武器が流星のように黒い靄を貫く。
「互いを敬い、互いを慰め」
 ブーメランのように飛んだ大鎌が死角に潜んでいた靄まで裂いていく。
「互いを助け、互いを慈しみ」
 魔力をまとった刃が振られて飛んだ斬撃が、遠方の靄を消し去った。
「真心を尽くしてラビアを愛することをここに誓おう!」
「真心を尽くしてクジャト神を愛することを誓いましょう!」
 川の穢れが消え去ったことを確認した二人が顔を見合わせ笑みを交わす。この冥府の新しい夫婦に使い魔たちが揃って問うた。
「何にかけて?」
 答えは間髪入れず、堂々と朗々とした声で。
「我が二対の腕にかけて!」
「我が傷と背にかけて!」
 クジャト神が無邪気な笑みを浮かべてラビアを抱き上げ、そのまま歓びに任せて口づけした。
 
***

 死の神クジャトから現世に神託が下ったのは、実に、国一番の公爵家の葬儀の真っ最中のことだった。
 公爵家の5人の子供たちのうち、次期当主の長男と長女と次男、末の妹の4人が危篤状態の現当主を置いて一気に死に絶えたことはもとより国中でも噂の的になっていた。その葬儀の最中のことであるから、この神託は人々の興味を引き、同時に人々を大いに驚かせた。
 否、神託というほど堅苦しいものでもない。当主である病床の父に代わって葬儀を執り行っていた次女リパが、死の神の紋章が刻まれた祭壇に祈りを捧げていたとき、その声が響き渡った。
「皆に報告がある。冥府の主、生死の境の番人、死の神、古き神々の子にして古き神々を屠りし者、大海神の弟であるクジャトはこの度、公爵家の末娘ラビアを我が妻として迎えた。勇敢で気高い、俺の最愛である。同時に俺と共に冥界の秩序を守る、冥府の女王でもある。というわけで、以後よしなにたのむ」
 威厳があったのは最初だけ、途中からは嬉しくて仕方ないといった声色だった。
 兄たちはともかく、末の妹のことを思って涙をにじませていた次女リパは泣くことも忘れて唖然とした。「ラビアです、よろしくおねがいします」なんて少し照れたように挨拶するあの懐かしい妹の声が聞こえたのだからなおさらだ。
 多くの者が集う葬儀の席のことであったから、この一件は国を超えて知れ渡るところになり、神話には新たに「冥府の女王」という項目が加わることになった。
 公爵家の次女リパはこれ以後、クジャト神とその妻たるラビア女神を篤く敬うようになった。危篤状態だった公爵家の当主が痛みもなく眠るように亡くなると、父の座を継ぎ、最期は孫やひ孫に囲まれて100歳で天寿を全うするまで健やかに生きたらしい。これもひとえにクジャト神とラビア女神への信仰のたまものであると、後世の人々は語ったという。