あなたがいなくなった後

 冬の気配を感じつつもまだ秋の名残を感じる十一月中旬。保育園で作ったという牛乳パックのどんぐり入れを得意げに首に下げ、宏樹と繋いでいた手を離して陽太が公園の入り口から駆け出した。

「どんぐり、あったー!」

 遠目からも分かるくらいに沢山落ちている木の実に興奮気味に声を上げる。保育園の園庭にもどんぐりの木はあるが、毎日大きい子達が競い合って拾うから陽太のような小さい組さんのお庭遊びの時間にはほとんど何も残っていないらしい。
 優香ははしゃいでいる息子へと声をかける。

「陽太、穴が開いてるのは拾っちゃダメだよ。虫さんが入ってるかもしれないから」
「あーい」

 生後半年になる女児を乗せたベビーカーを押して、優香はゆっくりとクヌギの木陰に近付いていく。その隣では青色の砂場遊び用のバケツを手にした宏樹が眩しそうに目を細めながら歩いていた。

「どんぐりってさ、穴が無くても虫入ってるよね?」
「そう、いるよね……どっからどう入り込んでるのか分からないけど。だから、拾ったのはビニール袋に入れて速攻で冷凍庫行きだって保育園の先生が言ってたよ」
「へー、凍らせるんだ」
「工作で使ったりするのは、一度凍らせた後に陰干しした物を使ってるんだって。先生も大変だよねぇ」

 並んでお喋りしながら歩いてくる二人へ、陽太がすでにいっぱいになった箱の中を得意げに掲げて見せてくる。半分に切った一リットルの牛乳パックに穴を開けて紐通ししたものに、紙を貼ってカラーペンで絵を描いた陽太専用の容れ物。三歳児クラスになってから、こういった工作物が家の中にもどんどん増えてきていた。まだ何の絵なのかは本人に確認しないと判別不能だけれど、いつも何色ものペンを使いこなしたカラフルな作品ばかりだ。

 優香は木陰にベビーカーを止めると、中でお利口に眠っている娘のことを覗き込む。宏樹に似て睫毛の長いはっきりした顔立ちの長女は、スヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。

「どんぐり拾い、パパも手伝ってよー」
「よし、じゃあ、パパはこっち側を拾うから、陽太はそっちの木の下を探してくれる?」
「あ、帽子付きのどんぐり!」

 拾ったばかりの殻斗が付いたままの実を手の平に乗せて、陽太は宏樹の元へ駆け寄って見せびらかす。「お、レアなのを見つけたな」と養父から褒められて、鼻を膨らませて喜んでいる。
 優香はベビーカーの傍でしゃがみ込みながら、夫と息子の様子を眺め見ていた。家族が揃って過ごす、とても穏やかで幸せな休日。以前は叔父と甥という関係だった宏樹と陽太は、今ではすっかり父子になり、半年前に生まれた長女のことを競い合うように溺愛してくれている。

 拾ったばかりのどんぐりの大きさ比べを始めた二人の様子に笑みを漏らしていると、ベビーカーのハンドルに引っ掛けていた優香のバッグの外ポケットからメッセージの着信音が小さく聞こえてきた。取り出してスマホの画面を確認すると、懐かしい名前が表示されていた。

「――あ、吉沢君からだ」

 研修期間を終えて本来のオフィスへ戻って行った吉沢汐里。たまに電話を取り次ぐことはあっても、あれ以来顔を合わせることはなかった。でも、宏樹からの話を聞く限り、相変わらずのマイペースで淡々と業務をこなしているみたいだ。

「ん、吉沢って、前にうちに来てた吉沢君?」

 優香の呟きが聞こえた宏樹が、驚いた顔で振り返る。

「……優香ちゃん、吉沢君と連絡取り合ってたんだ?」
「うーん、たまに近況報告程度にメールし合うだけだよ」

 優香の言葉に、宏樹は拗ねたように眉を寄せて唇を尖らす。「でも、本当に半年ごととか、そんな感じだからっ」と優香は慌ててフォローを入れる。宏樹が意外とヤキモチ焼きだというのはようやく最近になって気付いた。
 吉沢からのメッセージは後で確認しようと思っていたが、すぐに内容を教えないとさらに宏樹に余計な心配をされそうな雰囲気で、優香は急いでメールアプリを開く。

「わっ、吉沢君、会計士の試験合格したんだってー」
「ああ、今日は論文式試験の発表の日か。そっか、受かったのか」

 臨時とはいえ、元スタッフの資格試験の合格報告に、宏樹も安堵の笑みを漏らす。真面目で勉強熱心な吉沢の努力が実ったことは、二人にとってとても嬉しいことなのだから。
 優香は吉沢から届いたばかりのメッセージを宏樹へ聞かせるように読み上げる。

「――また機会があれば、石橋所長の下でコンサル業務の勉強をさせていただければなと思っています、だって。吉沢君、またうちに来たいって言ってるよ」
「いや、それはちょっと無理かな。だって、彼は優香ちゃんが……」

 もにょもにょと語尾を誤魔化すように口ごもった後、宏樹は優香の隣へやってきて、妻が手に持っていたスマホをすっと取り上げ、それはバッグの外ポケットへと突っ込み直す。

「吉沢君のことは、また後にしてよ」

 そう言いながら、傍にしゃがみ込んで優香の頬に手を添えて自分の方へと向かせる。そして、ベビーカーの陰に隠れるように、その唇にそっと口付ける。これまで幾度となく重ねてきた唇だったけれど、嫉妬に燃えた時の彼はより甘くてとても熱い。
 優香はそんな夫のことを愛おしそうに笑みを漏らしながら見つめ返した。