――これから冬になるというのに、何もこの季節に出発しなくても。

 咎めるように響いた女性の声は、いったい誰のものであったのか。
 視界を染める薄墨の空は、明ける間際の暁闇。
 草木もまだ眠る静けさの中、空気は冷たく透き通り、まるで世界で他に生きている物は誰もいないかのような錯覚を引き起こす。

 ――ここよりも、ずっと寒いのでしょう? きっと、暮らしていけないわ。
 ――冬になる前に生活の基盤を作る。少なくとも、ある程度は目処をつけたいから、今行くんだ。ずっとそばにいられなくて悪かったね。

 若い男の声だ。妹を気遣う兄のような話しぶり。
 二人の短い会話から、これは別れの場面だ、と察せられた。

 ――あなたがいなくなってしまったら、私はどうすればいいの。もう猫から人間に、戻れなくなるかもしれない。
 ――その心配は無いよ。この能力は、二人揃って初めて成り立つ。俺が遠くにいる間、そもそも君は猫になることがない。猫にならなければ、人間に戻れないと心配する必要もない。

 猫になるひとと、猫から人間に戻す役割のひと。
 いつか知れない過去のある時点で、彼らはなんらかの理由で袂を分かった。
 以来、彼女は猫になることなく。
 おそらく、彼にはその後二度と(まみ)えることもなかった。

(こうして、猫になる能力そのものが眠りについた。対となる相手が現れる、その日まで)

 夢を見ながらにして、これは夢だと気付いている。けれど明晰夢のような自由度はそこにはなく、動かしがたい現実をただ見ているだけ。

「……、また会おう」

 自分の唇が動いて、誰かの名を呼んだ。果たせない約束を口にした。その感覚を追いかけるように龍子は指で唇をなぞる。
 いま呼んだばかりの名前がもう、思い出せない。
 夢からは、そこで醒めた。


 * * *