『私にも譲れぬものはあるのだ』

 頭の中に響くその声に、思わず唇を噛みしめる。
 まるで独占欲を示してくれているような彼の言葉が嬉しい。
 嬉しさで胸がいっぱいなのに、そんなふうに感情を揺さぶられている自分が嫌で仕方がなかった。
 期間限定の関係だとわかっているのに、相手を好きになるなんて辛いだけだ。
 何度割り切ろうとしても、彼の一挙一動に感情を揺さぶられている自分が情けない。

『……この姿で会うのは、久方ぶりだな』

 ふと響いてきた声に、顔を上げる。
 心当たりのないその言葉に小さく首を傾げれば、ふわりと広げられた翅がやわらかな風を立てた。

『覚えていないのも仕方がない。あのときのそなたは、命の灯が消える寸前だったからな』

 彼の声に、目を瞬く。
 命の灯が消える寸前の状態になったのは、これまでの人生で一度きりだ。
 それは私が四歳の頃、両親と共に出かけた先で、大きな事故に巻き込まれたあの日。
 驚きに目を見開くと同時に、記憶の蓋が弾け飛んだかのように過去の記憶が蘇ってくる。
 あのとき――全身の痛みに悲鳴を上げ、身体中から命が零れていくことを実感したあの瞬間。
 朦朧としていく意識の中、死にたくないとそう思ったとき、真っ暗だった視界の中に何かが蠢いた気がした。

『死にたくない……』

 ぽたりぽたりと落ちていく涙。
 滲んだ先に見えたのは、二つの黄金色の輝きだった。

『――生きたいのか?』

 耳に届いた声に、こくりと頷きを返す。

『なぜ生を望む? 死を拒んで、そなたは何を得る?』

 その問いは、幼かった私には難しすぎた。
 朦朧とした意識の中、鉄の味が広がる口を動かす。

『大人になったわたしを、見たいって言ってたから』

 それは、惜しみなく愛情を注いでくれた両親の口癖だった。
 可愛い可愛いと頭を撫でてくれ、成長を楽しみにしてくれた大切な両親。
 幼い自分にとって、両手を引いてくれた両親の存在は私の全てだった。

『だから、わたしは大人になりたい』

 二人の願いを叶えたい。
 生とか死とか難しいことはわからない。
ただ私の中にあるのは、両親への想いだけだった。

『そうか』

 黄金色の光は瞬きながら静かに告げる。

『……二十年といったところか』

 ぽつりと漏れ聞こえてくるその呟きと共に、冷え切っていた指先が徐々に熱を帯び始める。
 指先からゆっくりと身体の中心に流れ込んでくる温もりに滲んでいた視界が開けると、そこには月の光を反射するような大きな黒い塊が映った。
 ゆっくりと蠢いたそれが、人ではない何かであることに気付く。

『ならば生きてみよ。そしていつか、そなたが生きた意味を教えておくれ』

 洞窟にこだまするようなその声が頭の中に響く。
 その声を最後に、幼い私の記憶はふつりと途切れた。
 突然蘇った当時の記憶に、目を見開く。
 顔を上げれば、陽光に鱗を輝かせる黒龍の姿があった。

 ――今まで、どうして思い出せなかったんだろう。

 僅かに震えた唇を、ゆっくりと開く。

「あのときの――」
『はは、ようやく思い出したか』

 満足そうにゆっくりと首を振った相手は、ゆっくりとその翅を広げた。
 まるで背伸びをするかのようなその動きに合わせて、湖面に美しい波紋が広がっていく。

『私はそなたを一目見た瞬間に思い出したぞ』

 黄金の瞳を細めた彼は、再び喉を鳴らした。
 これまで二十年間、曖昧な夢に魘されるだけで一度も思い出せなかった当時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
 あのとき、私は死の淵で確かにレイゼン様の声を聞いたのだ。
 そして、奇跡だと言われた私の生還には恐らく彼が関係していた。

「……レイゼン様は、奇跡を起こしてくださったのですか?」

 私の問いに、黒龍はその瞼を下ろすと、ゆっくりとその首を横に振った。

『私はただ、そなたに命を吹き込んだだけだ。死に絶えたものを甦らせることはできないが、生物の命を操り与え奪うのは神龍族の特性だからな』

 その衝撃に、言葉が出てこない。
 命を操るなんて、まるで神の所業だ。
 目の前にたたずむ相手が、人ならざるものであることを改めて実感する。
 理解を超える発言に戸惑っていれば、彼はすっとその目を細めた。

『そなたの声が届いたとき、私は最後の肉親を失ったばかりだった』

 彼の言葉に、以前耳にした彼の身の上話を思い出す。

『永久に続くような長い命を前に呆然としていたとき、消えかかっている命が必死に生を望む声が聞こえたのだ。心底疎ましく思っていたものを欲しがるその声に、興味を惹かれた』

 その声に思わず手を伸ばせば、触れた鱗からひんやりとした感触が伝わってくる。

『そなたが大人になりたいと望んだから、私は命を吹き込んだ。いつかそなたの生きた意味を教えてくれとは言ったが、まさかそなた自身が時空を超えてこちらに渡ってくるとは思わなんだ』

 そう囁いた彼は、私の手にその顔をすり寄せる。

『そなたが「時空の迷い子」であると気付いたのも、そなたから自分の気配がしたからだ』

 咽喉を鳴らすような音が響く。

 私がこの世界に迷い込んだのは、レイゼン様から命を分け与えてもらったという縁があったからなのかもしれない。
 そう考えていれば、ふと新たな疑問が湧いてきた。

「大人になった私は、もうすぐ死ぬんでしょうか?」

 私の言葉に、黒龍はゆっくりとその目を細める。

『そなたは、この先もまだ生を望むか?』