今年のバレンタインは、結局何もなく終わったなぁ…。
私、成瀬彩乃は、会社のトイレの鏡に映る自分を見つめて、ため息をついた。
自分にご褒美チョコを買っただけ。
直前まで悩んだけど、やっぱりやめちゃった。
彼女がいる人に本命チョコをあげるなんてね。
本命じゃないよって誤魔化すことも、笑いに変えることもできる関係性ではあるけど、それはそれでなんか違うというか。
そうするならあげてもな…って思ってしまった。
ほんとに……私はどうしたいのやら。
もう一度ため息をつき、トイレを出る。
オフィスへ戻る廊下を歩いていると、向かいから、今ちょうど考えてた人が歩いてきた。
「あ、成瀬」
私に気づいた彼は、よぉと手を挙げた。
「お疲れ、岩本」
岩本優太。
私の同期だ。
この会社に入社してもうすぐ一年が経つ。
少ない同期の中でも、最初から波長が合って、仲良くしている。
「え、お前、頭に虫ついてる」
目の前まで来た途端、岩本が言い放った言葉に私はビクッとした。
「えっ、む、虫!?」
「うん」
「ちょ、取って!」
「え、むり」
「ひどい!え、ちょっとどうしよ、」
鏡がないから頭を確認することができないし、確認できたとしても虫を触るなんて絶対嫌だ。
ていうか、さっきトイレで鏡見た時、全然気づかなかったんだけど、なんで!
「あれ、彩乃に岩本じゃん。お疲れ〜」
私が焦っていると、同じく仲良し同期の、寺田咲がやってきた。
「咲!助けて!頭に虫が!」
「へ、なに?」
「だから虫!咲、取って!」
半泣きで、咲にお願いをする。
「虫?どこに?いないよ」
「え、いない?」
私の頭をくまなく見てくれた咲が、もう一度「うん、いない」と頷いた。
「え、でも岩本が……あ!!」
まさかと思って、頭の右側を触った。
「……髪留め」
パッと岩本を見ると、口元のニヤニヤが隠し切れてない。
「ねぇ…わざとでしょ」
「いやなんか付いてると思ったんだよ」
「だからって虫はなくない?」
「ごめんって」
わざとらしく謝る岩本を睨む。
可愛くて一目惚れして買ったばかりなのに。
岩本が、似合うなんて言ってくれるわけないって分かってるよ?
分かってるけど、いじられるとへこむ。
「相変わらず懲りないね〜あなたたち」
咲が呆れたように私たちを見る。
「彩乃も、今回はさすがに気付いてもよかったんじゃない?」
「いや、だって…ちょっとムズムズする気がしたから、ほんとにいるかと思って」
「頭に虫が?」
「うん」
頷くと、横からぷっと吹き出す声がした。
「おもしれぇ」
「岩本!」
私がまた睨むと、岩本が顔の前で両手を合わせる。
「ごめんって」
「謝って済むことじゃないんだから」
「分かった!今日奢るから、許して」
「あ、絶対だよ!男に二言はないからね」
「任せてください」
やった!お腹空かせて行こうっと!
落ちてた気持ちが一気に弾む。
「咲も行くよね」
もちろん行くだろうと思って聞いたら、
「あーごめん、今日私予定あって」
「え、そっかぁ、残念」
「また今度行こ」
「うん、また今度ね」
…てことは、今日は岩本と2人、か。
なんか、急にちょっと、そわそわする。
「じゃ、仕事終わったらLINEするわ」
「あ、うん」
「じゃ、また後でなー」
岩本は、ひらひらと手を振って歩いていった。
「よかったじゃん、2人で飲み」
「咲の分まで、いっぱい飲んでいっぱい食べてくるよ」
いじられてむかついたから奢ってもらう。
ただそれだけ。
胸の奥底から湧いてくる気持ちを押し込んで、咲に笑い返す。
「そういうことじゃなくてさー。なんだかんだで仲良いんだから、2人」
「そ、そんなんじゃないよ。いつもいじってくるし、あいつ」
「ほんとかまちょだよね、小学生みたい」
ほんとに。
男は何歳になっても子供ってよく言うけど、まさにそれ。
「でもさ、咲にはしないよね」
「彩乃が毎回ちゃんと反応してくれるから嬉しいんじゃない?」
「なにそれ、意味わかんないよ」
「彩乃のことが好きなんだよ」
咲の言葉にドキッとする。
「い、いや彼女いるじゃん、岩本」
「そうだけど。でもなんか、好きな子につい意地悪しちゃうみたいな。そんな感じしない?」
「え、し、しないよ」
彼女いるのに、そんなことあるわけない。
「うーん。その髪留めだって、似合ってるって素直に言えばいいのに」
「似合ってるなんて思ってないよ、岩本は」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。私が珍しいもの付けてきたから、いじりたくなったんでしょ」
自分で言って悲しくなる。
でもほんとにそうだと思う。
「私は可愛いと思うよ。彩乃に似合ってる」
「ありがとう、咲」
大好きだよ〜と咲の腕に抱きつくと、咲はふふっと笑った。
・
私の好きな人は、よくこんな調子で嘘や冗談を言って私のことをいじる。
いつからかなんて覚えてない。
けど、新人研修で仲良くなってから、いつの間にかそんな関係になっていて、私はなぜかそれが嬉しかった。
本気で言ってるわけじゃないのはわかるし、他の同期よりも距離が近い、仲良いというのが純粋に嬉しかった。
彼女がいるって知ったのは、好きになった後だった。
ほんの成り行きで知ってしまったその事実に、私は一人でショックを受けた。
行動を起こす前に、急に終わりを迎えた恋。
そして、岩本とは今まで通り、変わらず接する日々。
彼女とは長く付き合ってて順調らしく、惚気を聞かされたことだってある。
どう考えても、私は恋愛対象として見られてない。
ただ周りよりちょっと仲の良い同期ってだけ。
岩本にいじられることが、初めは嬉しかったのに、今では少し悲しくなる。
そんな気持ちを隠すように、つい強い口調で言い返してしまうんだ。
あぁ……
なんでこの人を好きになっちゃったんだろうーー。



