柊くんのキッチンスタジオに招かれた私と園田くん。

 二人との楽しいお喋りは、学生時代にタイムスリップさせてくれた。

 柊くんの美味しい料理に舌鼓をうって。

 ……楽しい。嫌なこともほんの少し頭から離れて、気にならなくなる。

 忘れは、しないけれど。
 夫の浮気、夫の裏切り。

 そんな夫の話、よく聞くありふれたことだって。私には割り切る強さも、そこまで颯斗くんと二人の結婚生活を手放したくないという執着も愛もないのかも。

 だからって、傷ついていないわけじゃないもん。

 ……ごめん、自分! 本心じゃないね。強がりだ。

 そうでも思わなくては、いつもの自分でいることも出来ないし、しっかり立ってはいられない。


 私はすすめられたお酒を、いつもの自分らしくなく早いペースで飲んでしまった。

 くらくらと景色が回る。
 でも、不快じゃない。
 不思議と心地良い酔いに、身も心も包まれてて、視界と頭のなかがゆらゆら〜っとしてる。

「小夏? 酔ってる? ちょっと休んでいきなよ」
「うーんっ……」

 私はふわふわとした夢見心地のなかにいた。

 ええっ!?
 なぜか、柊くんにお姫様抱っこされてるー!?

 柊くんの顔が近くて、ドキドキしてしまう。

「園田くんは……?」
「さっき帰ったよ。ねえ、小夏。小夏言ってたけど、藤宮は今日は家に帰らないんでしょ? うちの香恋も撮影の仕事で戻らないから、気兼ねなく泊まっていけば良いよ」
「えっ、だって……そんな」
「ここ。俺のキッチンスタッフ用のゲストルームがあるから」
「ああ……なんだ。良かった」

 柊くんはイタズラな笑みを浮かべる。

「ねえ、小夏。俺んちの寝室かと思ったの? さすがにそんなとこに小夏を泊められないよ。ムードと配慮にかける」

 私を静かにベッドに下ろすと、柊くんは距離を取ってソファに座った。
 柊くんの優しさと、気遣いを感じる。

「……俺んとこはね、たぶん離婚することになると思う。まっ、妻に話し合いをするのを意図的に避けられてるけどね。あれから興信所に続けて調査依頼かけたんだ。そしたら……浮気相手が複数いた証拠が出てきてるんだ。小夏の旦那さんとも遊びかもとは思ったけど、……二人の関係はだいぶ年数が長いみたいだから。正直どうしたら良いもんかと参ってる」
「やっぱりあの二人長いんだ。……私と付き合う前からなんだね。颯斗くんと香恋さんはずっと昔から恋人関係なのに、どうして颯斗くんは私と結婚して、香恋さんは柊くんと?」

 柊くんが立ち上がって、私に近づいてくる。
 そっと私の隣りに腰を下ろして、柊くんは私を見つめた。

「全部が全部ね、偽りの気持ちで結婚したんじゃないと思うよ? 藤宮と小夏は誰もが羨む仲の良いカップルだったし。あれが藤宮の演技だったとは俺には思えない」
「……慰めてくれてありがとう。柊くんも辛いのに」
「そう、だね。……俺は小夏の悲しそうな顔を見るほうが辛いよ」
「えっ?」

 柊くんの手が躊躇いがちに私の頬にそっと触れる。
 ゆっくりと長い指が私の涙を掬った。

 私、いつの間にか泣いてたんだ。

「俺にとって小夏は特別な人だから。小夏があの日助けてくれたことが俺の人生を変えたんだ」
「特別だなんて……、大げさだよ。友達なんだもん、助けるのは当然でしょ? 私だってたくさん柊くんには助けてもらったよ。柊くんが数学とか物理とか教えてくれたから大学合格できたようなもんだし。あの頃から柊くん、人に教えるの上手だったよね」

 柊くんがあまりにもじっとこちらを見つめてくるから、私は恥ずかしくなって。
 こらえきれずに、すっと視線を泳がしてしまった。

「……なんで、そんな反応? ……可愛すぎるよ、小夏。俺の理性を試してるの?」
「そっ、そんなことあるわけないよ! あのねえ、柊くん、私をからかうのはやめてっ。……面白がってない? 私、どう振る舞っていいか困るよ〜」

 私は柊くんとのあいだに漂った、少し甘くて変な空気を吹き飛ばすように、笑ってごまかした。

 キスでもされてしまいそうなどきどきな雰囲気、本気だとは思わないけれど、間違いがはずみで起きちゃうには充分な色気が柊くんにはある。

「ごめん。軽率だったか。……小夏を前にするとつい、かまって触れてみたくなるんだ」
「そういうセリフ、だめだよ。勘違いしちゃうよ?」
「勘違いしてくれていいよ。だって俺がずっと心を許してきたのは小夏だけだから」

 柊くんの真意が分からない。

「俺、妻を愛そうって何年も頑張ってきたけど。もう限界かも」
「えっ――?」
「妻が俺のこと見てないなんてとっくに気づいてたんだ」
「柊くん……」
「突き止めようとかってしなかったし、知りたくなかった。元々、香恋は兄さんの許婚で。……兄さんが香恋を傷つけたから、弟である俺が責任を取ろうと思ったんだよ」
「そんな……」
「香恋が好きなようにするのを咎めたりはしないつもりだったけど。浮気の相手が何人もいて、そのなかに藤宮もいるって知ったら、どうしても許せなくなったんだ」

 私の手を柊くんの手が包むようにして、視線が交わる。
 そっと私は柊くんに抱きしめられていた。

「小夏には幸せでいてほしい。笑って毎日を暮らしてほしいって願ってた。なのに、君を幸せにするはずの夫の藤宮は裏切っていて。……気づいたんだ。君を幸せに出来るのはアイツじゃない」
「私……大丈夫だよ、柊くん。心配してくれてありがとう。幸せ、か。あのね、今すぐには平穏で幸せな日常を手に入れるのって難しいけど。他人任せじゃなくってね、自分の力でなるべきだって思うことにしたから」

 そう答えを出すのは、簡単じゃなかった。
 だけど、人に自分の幸せを委ねるのは間違っているのに気づいたんだ。