柊くんと園田くんが、うちまで車で送ってくれた。
――もうすぐ日付けが変わっちゃう。
私は結婚してからこんなに遅い時間に帰るのは初めてだった。
ちょっぴり罪悪感に苛まれるけど、私は頭を横に振る。
颯斗くんはよく午前様になるけど、仕事が営業職だから接待とかあるし、しょうがないよねと思ってた。
夫の朝帰り。全部が全部、仕事じゃなかったんだ。
月の幾つかは、浮気……。
「はあー。私の好きな颯斗くんが不倫か」
ふと廊下から見上げた空にはずいぶん欠けた月が冴えて光っていた。
重たい足取りでマンションの7階、私と夫の颯斗くんと住む家に帰る。
「小夏、おかえり。同窓会はどうだった〜?」
リビングに入ると、颯斗くんが慌ててサッと携帯電話を隠したのを私は気づいてしまった。
もう、平穏ではいられない。
同窓会に出掛ける前の呑気な私にはもう戻れない。
私を送り出す時、颯斗くんはどんな気持ちだったんだろうか。
(颯斗くん、ウキウキした? 私が出掛けたら《《彼女》》と電話し放題だ。なんなら会うことだって出来る)
「小夏? どうした? そんなとこ突っ立って」
「あっ、うん。いや、なんでもないよ。ただいま」
私がお風呂場に行こうとしたら、颯斗くんに後ろからムギュウッと抱きしめられた。
「やっ、やだ」
「えっ?」
空気が凍りつく。
「あのっ、私帰ってきたばかりで汚れてるから、触らないで。お風呂入って来るね」
「ああ、なんだ。俺、小夏に嫌われたのかと思った。可愛い嫁にハグを拒否られたら、俺は生きていけない」
よく言うよ。
私じゃない女の人は? よそでたくさんそんなのしてきてんでしょ?
なんなら、ハグ以上のキスもそれから深い男女の交わりだって、しょっちゅうしてるくせに。
私は急にしらじらしくなった。
――急激に、心が冷えていく。
颯斗くんとの思い出と結婚生活が褪せて、気持ちがそこでストップして、録画した画像を一時停止したみたいに止まった。
「俺、小夏いなくて寂しかったあ〜。一緒に風呂入る?」
――はぁっ!?
なんで一緒に?
そういうのずいぶん無かったよね。
私は、颯斗くんの甘えて私の首に巻きついた腕を振り解《ほど》いた。
颯斗くんを拒んだ。
自分の夫である颯斗くんを煩わしくもとても汚れて穢らわしくも感じた。
申し訳ないけど思春期の時のお父さんに抱いた嫌悪感がする。
意図せず、虫唾がはしった。
大好きな人だった。
颯斗くんは私の大好きな旦那さん……、ではなくなった。
だけど。
まだ、好きだ。
悔しい。
裏切られたのに。
ううん。
ずっとずっとずーっと前から裏切られていたのに。
「なんかあった?」
「ご、ごめん。疲れちゃった」
「楽しかったんでしょ?」
「あー、うん。でも久しぶりに集まったからね、気を遣うこともあるんだよ」
颯斗くんは妙に納得した顔をして頷《うなづ》いた。
「そっか。そうだよな。大人になると独身とか既婚者とか、子供がいるとか妊活中とか。デリケートな部分で境界線みたいなの張られたりすんもんな。楽しいけど、学生時代とはみんな違うからなあ」
……いや、だいぶ、ちがう。疲れた原因……。あなたの浮気の件、裏切られたことで私はかなり傷ついて疲れてるんです。
私はハンドバッグから小さなケースを出した。
「颯斗くん。お土産、どうぞ」
「おお〜っ、すげえ。これ、柊の店のやつ? マカロン?」
「うん。貰った。先に食べてて良いよ」
……颯斗くん。
そのマカロンね、柊くんと私で一緒に作ったんだよ。
柊くんの家で。
熱めにしたシャワーを浴びると、一気に頭が冴えてきた。
それから急に、私は涙がこみ上げて来て、泣いていた。
……声を押し殺しながら。
私と柊くんは、これからも定期的に会う約束をした。
友情の延長にある、共同戦線。
これは、サレてる側の同盟なんだ。
敵はお互いのパートナー、私の夫の颯斗くんと柊くんの妻のカレンさん。
でも、復讐だなんて。
『俺と小夏でさ、明るい復讐をしようか?』
『えっ? 明るい復讐?』
『前向きな、ね』
私は柊くんの言葉を、反芻している。
『もちろん、こっちも浮気しようとかじゃないよ。……ごめん、実は偉そうなこと言っといて、本当はまだ何もちゃんと決めてないんだ。小夏の顔を見たら、自分がどうしたいか分かる気がしたんだよ。妻のカレンの浮気に対して自分がどうすべきかって』
『ふふっ、そっか。うん、良いよ柊くん。しようか? 明るくて前向きな復讐。あのね、私達が楽しく過ごしたらそれも復讐の一部なんじゃないかな』
『楽しく、か。……小夏。じゃあ、久しぶりに俺と一緒にお菓子を作る?』
『あー、良いね! 柊くんとお菓子作りなんて、何年ぶりだろう? 文化祭なんかすっごい大変だったけど、とーっても楽しかったなあ。料理部のみんなで作ったアイシングクッキー美味しかったよね』
『……そうだね。あのさ、小夏』
『んっ?』
『いや、なんでもない』
そういや柊くんは何を言いかけたのだろう?
私が憂鬱な気分が晴れないまま、お風呂上がりにリビングに行くと颯斗くんはベランダに出ていた。
煙草を吸いに行ったみたい。
無造作にローテブルに置かれた颯斗くんの携帯電話が光る。
「えっ」
私は目を疑った。
夫は私が携帯電話を覗き見しないのを知っている。
私はそういうのを守るタイプだと、信じている。
暗証番号だって知らない。
だけど。
ああ、だからって。
無防備すぎ。
これは逆にマナー違反な気がする。
携帯電話なんか見えるように置いておくな、《《カノジョ》》からのメールさ、会話の表示の通知はオフにしとこうよ。
さっきは《《ちゃーんと》》隠したじゃん。
バレないと高を括っているんだ。
長年、大丈夫だったから。そう、ずっと何年も私にバレなかったから。
――見えちゃった。
私は、颯斗くんの携帯電話を手に取って見たわけじゃないよ。
颯斗くんがそこに置いてた、だけ。
『柊カレン
【早く颯斗に会いたい。愛してるわ♡ 来週、いつものホテルでね。】』
じゃ〜ん!!
浮気、確定――!!
裏切り、不倫、ウチノダンナニカギッテ。そんなの無い無い。
友達夫婦の離婚や会社の同僚の不倫の話は違う世界の出来事で、仲良しな夫婦のうちには関係ないと思ってた。
颯斗くんのこと、信じていたんだ。
二人の愛は永遠だって純粋で。一番大切に想ってた。
愛情を疑ったことなど、無かったんだよ。
颯斗くんが一番大事でオンリーワン。
だから当然、私だけを愛してくれてるって。
私の方は颯斗くんの唯一無二の恋する人で妻で、互いに愛し合っていると勘違いして。
一心に愛情を注いできたのに。あー、馬鹿だなあ。
あーあ。
私、馬鹿だった。
浅はかで……無邪気だった。
あんなにたくさん、同じように傷ついて悩む柊くんに証拠を見せてもらって。
深刻そうに園田くんに心配されたのに。
私はそれが……、この期に及んで夫の浮気が壮大なジョークだと思いたかったのかな。
他人事であってほしかった。
私は渦中にいるんだ。
『旦那さんは浮気してる。俺の妻と――』
柊くんは優しい。
だって。
自分が勝手に行動に起こしたら、私が無駄に傷つくと思ったんだって。
『俺が妻を問い詰めて浮気相手の藤宮をどうこうしたら、藤宮と結婚してる小夏が辛くなる。だから先に、小夏に知らせなくっちゃと思ったんだよね』
柊くんは鮮やかな手つきでマカロンを作り出す。
魔法みたいだった。
『エプロン男子、料理部の王子様』
『んっ? なに?』
『柊くんは世界一エプロンが似合うね』
『フフッ。「柊くんって、世界一、エプロンが似合うから好き」ってまた言ってくれるの?』
『……言うかも』
柊くんと、変に甘い雰囲気になっちゃった。
あの時は自棄になってて、現実逃避したかったのだと思う。
『小夏、キスしたくなるような顔しないで』
『えっ……』
柊くんが、ふいっと顔を伏せる。
横顔が美しいなって、一瞬見惚れる。
『小夏はさ、俺をとっくの昔に振ったくせに。そんな顔してちゃ、放っておけなくなるよ?』
『それって小学生の時の話じゃな……』
(――綺麗な指だな)
柊くんの節くれ立った長い指が、出来上がったマカロンを小さなケースに詰めていく。
ふと、視線が絡んだ。
柊くんの顔が私に近づいてきた。
――ドキッ!
柊くんの唇が私の唇に触れるかと思った。
きゅうん。とくん、とくん。
私の胸の奥が甘く疼いて、自分で「違うっ! 無駄に柊くんがイケメンだからだ。それだけだ」と、慌てて脳内でときめいた事実を全面否定して誤魔化した。
ドキドキした。
……ほんとは、今も。
ドキドキしてる。
柊くんを思い出しては、ドキドキが止まらない。
――もうすぐ日付けが変わっちゃう。
私は結婚してからこんなに遅い時間に帰るのは初めてだった。
ちょっぴり罪悪感に苛まれるけど、私は頭を横に振る。
颯斗くんはよく午前様になるけど、仕事が営業職だから接待とかあるし、しょうがないよねと思ってた。
夫の朝帰り。全部が全部、仕事じゃなかったんだ。
月の幾つかは、浮気……。
「はあー。私の好きな颯斗くんが不倫か」
ふと廊下から見上げた空にはずいぶん欠けた月が冴えて光っていた。
重たい足取りでマンションの7階、私と夫の颯斗くんと住む家に帰る。
「小夏、おかえり。同窓会はどうだった〜?」
リビングに入ると、颯斗くんが慌ててサッと携帯電話を隠したのを私は気づいてしまった。
もう、平穏ではいられない。
同窓会に出掛ける前の呑気な私にはもう戻れない。
私を送り出す時、颯斗くんはどんな気持ちだったんだろうか。
(颯斗くん、ウキウキした? 私が出掛けたら《《彼女》》と電話し放題だ。なんなら会うことだって出来る)
「小夏? どうした? そんなとこ突っ立って」
「あっ、うん。いや、なんでもないよ。ただいま」
私がお風呂場に行こうとしたら、颯斗くんに後ろからムギュウッと抱きしめられた。
「やっ、やだ」
「えっ?」
空気が凍りつく。
「あのっ、私帰ってきたばかりで汚れてるから、触らないで。お風呂入って来るね」
「ああ、なんだ。俺、小夏に嫌われたのかと思った。可愛い嫁にハグを拒否られたら、俺は生きていけない」
よく言うよ。
私じゃない女の人は? よそでたくさんそんなのしてきてんでしょ?
なんなら、ハグ以上のキスもそれから深い男女の交わりだって、しょっちゅうしてるくせに。
私は急にしらじらしくなった。
――急激に、心が冷えていく。
颯斗くんとの思い出と結婚生活が褪せて、気持ちがそこでストップして、録画した画像を一時停止したみたいに止まった。
「俺、小夏いなくて寂しかったあ〜。一緒に風呂入る?」
――はぁっ!?
なんで一緒に?
そういうのずいぶん無かったよね。
私は、颯斗くんの甘えて私の首に巻きついた腕を振り解《ほど》いた。
颯斗くんを拒んだ。
自分の夫である颯斗くんを煩わしくもとても汚れて穢らわしくも感じた。
申し訳ないけど思春期の時のお父さんに抱いた嫌悪感がする。
意図せず、虫唾がはしった。
大好きな人だった。
颯斗くんは私の大好きな旦那さん……、ではなくなった。
だけど。
まだ、好きだ。
悔しい。
裏切られたのに。
ううん。
ずっとずっとずーっと前から裏切られていたのに。
「なんかあった?」
「ご、ごめん。疲れちゃった」
「楽しかったんでしょ?」
「あー、うん。でも久しぶりに集まったからね、気を遣うこともあるんだよ」
颯斗くんは妙に納得した顔をして頷《うなづ》いた。
「そっか。そうだよな。大人になると独身とか既婚者とか、子供がいるとか妊活中とか。デリケートな部分で境界線みたいなの張られたりすんもんな。楽しいけど、学生時代とはみんな違うからなあ」
……いや、だいぶ、ちがう。疲れた原因……。あなたの浮気の件、裏切られたことで私はかなり傷ついて疲れてるんです。
私はハンドバッグから小さなケースを出した。
「颯斗くん。お土産、どうぞ」
「おお〜っ、すげえ。これ、柊の店のやつ? マカロン?」
「うん。貰った。先に食べてて良いよ」
……颯斗くん。
そのマカロンね、柊くんと私で一緒に作ったんだよ。
柊くんの家で。
熱めにしたシャワーを浴びると、一気に頭が冴えてきた。
それから急に、私は涙がこみ上げて来て、泣いていた。
……声を押し殺しながら。
私と柊くんは、これからも定期的に会う約束をした。
友情の延長にある、共同戦線。
これは、サレてる側の同盟なんだ。
敵はお互いのパートナー、私の夫の颯斗くんと柊くんの妻のカレンさん。
でも、復讐だなんて。
『俺と小夏でさ、明るい復讐をしようか?』
『えっ? 明るい復讐?』
『前向きな、ね』
私は柊くんの言葉を、反芻している。
『もちろん、こっちも浮気しようとかじゃないよ。……ごめん、実は偉そうなこと言っといて、本当はまだ何もちゃんと決めてないんだ。小夏の顔を見たら、自分がどうしたいか分かる気がしたんだよ。妻のカレンの浮気に対して自分がどうすべきかって』
『ふふっ、そっか。うん、良いよ柊くん。しようか? 明るくて前向きな復讐。あのね、私達が楽しく過ごしたらそれも復讐の一部なんじゃないかな』
『楽しく、か。……小夏。じゃあ、久しぶりに俺と一緒にお菓子を作る?』
『あー、良いね! 柊くんとお菓子作りなんて、何年ぶりだろう? 文化祭なんかすっごい大変だったけど、とーっても楽しかったなあ。料理部のみんなで作ったアイシングクッキー美味しかったよね』
『……そうだね。あのさ、小夏』
『んっ?』
『いや、なんでもない』
そういや柊くんは何を言いかけたのだろう?
私が憂鬱な気分が晴れないまま、お風呂上がりにリビングに行くと颯斗くんはベランダに出ていた。
煙草を吸いに行ったみたい。
無造作にローテブルに置かれた颯斗くんの携帯電話が光る。
「えっ」
私は目を疑った。
夫は私が携帯電話を覗き見しないのを知っている。
私はそういうのを守るタイプだと、信じている。
暗証番号だって知らない。
だけど。
ああ、だからって。
無防備すぎ。
これは逆にマナー違反な気がする。
携帯電話なんか見えるように置いておくな、《《カノジョ》》からのメールさ、会話の表示の通知はオフにしとこうよ。
さっきは《《ちゃーんと》》隠したじゃん。
バレないと高を括っているんだ。
長年、大丈夫だったから。そう、ずっと何年も私にバレなかったから。
――見えちゃった。
私は、颯斗くんの携帯電話を手に取って見たわけじゃないよ。
颯斗くんがそこに置いてた、だけ。
『柊カレン
【早く颯斗に会いたい。愛してるわ♡ 来週、いつものホテルでね。】』
じゃ〜ん!!
浮気、確定――!!
裏切り、不倫、ウチノダンナニカギッテ。そんなの無い無い。
友達夫婦の離婚や会社の同僚の不倫の話は違う世界の出来事で、仲良しな夫婦のうちには関係ないと思ってた。
颯斗くんのこと、信じていたんだ。
二人の愛は永遠だって純粋で。一番大切に想ってた。
愛情を疑ったことなど、無かったんだよ。
颯斗くんが一番大事でオンリーワン。
だから当然、私だけを愛してくれてるって。
私の方は颯斗くんの唯一無二の恋する人で妻で、互いに愛し合っていると勘違いして。
一心に愛情を注いできたのに。あー、馬鹿だなあ。
あーあ。
私、馬鹿だった。
浅はかで……無邪気だった。
あんなにたくさん、同じように傷ついて悩む柊くんに証拠を見せてもらって。
深刻そうに園田くんに心配されたのに。
私はそれが……、この期に及んで夫の浮気が壮大なジョークだと思いたかったのかな。
他人事であってほしかった。
私は渦中にいるんだ。
『旦那さんは浮気してる。俺の妻と――』
柊くんは優しい。
だって。
自分が勝手に行動に起こしたら、私が無駄に傷つくと思ったんだって。
『俺が妻を問い詰めて浮気相手の藤宮をどうこうしたら、藤宮と結婚してる小夏が辛くなる。だから先に、小夏に知らせなくっちゃと思ったんだよね』
柊くんは鮮やかな手つきでマカロンを作り出す。
魔法みたいだった。
『エプロン男子、料理部の王子様』
『んっ? なに?』
『柊くんは世界一エプロンが似合うね』
『フフッ。「柊くんって、世界一、エプロンが似合うから好き」ってまた言ってくれるの?』
『……言うかも』
柊くんと、変に甘い雰囲気になっちゃった。
あの時は自棄になってて、現実逃避したかったのだと思う。
『小夏、キスしたくなるような顔しないで』
『えっ……』
柊くんが、ふいっと顔を伏せる。
横顔が美しいなって、一瞬見惚れる。
『小夏はさ、俺をとっくの昔に振ったくせに。そんな顔してちゃ、放っておけなくなるよ?』
『それって小学生の時の話じゃな……』
(――綺麗な指だな)
柊くんの節くれ立った長い指が、出来上がったマカロンを小さなケースに詰めていく。
ふと、視線が絡んだ。
柊くんの顔が私に近づいてきた。
――ドキッ!
柊くんの唇が私の唇に触れるかと思った。
きゅうん。とくん、とくん。
私の胸の奥が甘く疼いて、自分で「違うっ! 無駄に柊くんがイケメンだからだ。それだけだ」と、慌てて脳内でときめいた事実を全面否定して誤魔化した。
ドキドキした。
……ほんとは、今も。
ドキドキしてる。
柊くんを思い出しては、ドキドキが止まらない。