夫は私を見ていない。

 夫婦二人が互いに目を合わせる回数が減るのは、同時に愛情が減っている明らかな証拠なのだろう。

 大恋愛時期には、夫と私は二人きりになると抱き合い触れ合い、じ〜っと甘く見つめ合っていた。
 そのまま、キスして。
 流れるままに、溢《あふ》れた情熱とこぼれだした欲にのまれ、体を重ねた。

 金曜日の晩、休日前夜、休みの朝……。
 高校生の時から続く。
 颯斗くんと付き合いたてに初めて体を重ね繋げ、結んだ縁。

 初めての彼からの行為は痛かったけど、深く繋がった瞬間はとてつもなく嬉しかった。

 初々しいころ。

 この体も心も満たされた心地良い愛情関係は一生続くのだと思った。

 私は彼しか、知らない。

 付き合ったのも颯斗くんだけだし、初体験の相手も彼で、他の男の人に抱かれたことがない。

 私はそれで良かったの。

 ……彼だけで、良かった。

 経験なんかいらない。無駄に重ねて、男性経験なんか豊富になんかならないでいい。

 一番好きも愛しているのも彼で、一人だけが良かった。

 純粋に強い愛情は、行き場をなくしたら有り余って途方に暮れた。

 夫に求められる満足感、女として妻として必要とされて愛されてる自信。

 私は颯斗くんと愛し合って夫婦になった。

(颯斗くん、そうだよね?)

 キスもハグもだんだん数が減って。
 私たち夫婦はセックスレスになった。


「小夏?」
「……」
「小夏、聞いてる?」
「あっ、ごめんなさい。ちょっとショックすぎて、意識がどっかいっちゃてた」

 隣りに柊くんがいるのに、私は自分の世界に入り込んで、夫の颯斗くんの浮気現場の写真に見入っていた。

「あっ、あの、……私。あ……アレ? ……どうしよう」

 私、勝手に涙が溢れてこぼれて、……ぽろぽろ落ちるのが止まらなくって、どんどん流れていく。

「小夏、俺のハンカチ使って」

 頬をつたう涙の筋を、柊くんがハンカチで拭ってくれた。

「まだ時間はある? もうちょっと話しておきたいことがあるんだ」
「……うん」

 夕方早い時間から始まった同窓会だったから、バーに来てる今はまだ夜の八時だ。
 颯斗くんには遅くなるって言ってあるから、構わないと思う。っていうか、もう颯斗くんに遠慮なんかすることないんだ。

「小夏、階下《した》に迎えが来るから。……ねえ、すぐには答えは出さなくて良いんだ。無理しないで? 今はまだ聞いたばかりで受け止めきれないだろ? 浮気したパートナーとすぐに別れるとか、まだ好きだから許すとか。そうそう簡単に答えを出せないし、あのさ、そんなに単純に割り切れるようななことじゃないよ」
「……柊くんは……」
「んっ?」

 バーボンの入ったグラスを傾けながらこちらを見つめてくる柊くんに私は、不覚にもドキッとした。その場の素敵な大人空間に溶け込んで、私の見たことない色気がたしかに存在していた。
 ……かっこいいって、罪だね。
 柊くんは、昔っからモテモテで。この人が、異性も同性も魅了してしまうのがどうしてか分かる。

 抗えない眩しさに、……惹きつけられる。
 あれ? おかしいなあ。
 私は、柊くんに関しては自分は彼の恋愛対象の圏外、外野の応援席の意識しかなかったのに。

 ――心が弱ってるから、かな。

 優しいもん、柊くんは。

「柊くんはどうしてそんなにすっきりした顔をしてるの? もう柊くんは答えを見つけたの?」
「あー、うん。ここじゃなんだし。まあ、それも後ほど。ねっ?」

 ほどなくして、柊くんが「そろそろ迎えが到着する頃だから、外に出ようか?」と言ってお店の地下の駐車場までエスコートしてくれた。

 そこには黒塗りの高級車が停まっていて、タキシードを着た執事風の初老の男性とかっちり高そうなスーツを着こなした若い男性が車の前に立って待っていた。

 ええっ、なにこのセレブな状態は……っ!?

「千秋様、お迎えにあがりました」
「ありがとう。えっと、小夏。俺の執事の小芝と秘書の園田。小夏と園田は高校卒業以来?」
「園田……くん?」
「小夏! あっ、えっと……榎崎《えのさき》さん、お久しぶり。ああ、今は結婚して藤宮さんなんだっけ?」

 園田くんがいてびっくりした。
 高校の同級生で柊くんと一緒に生徒会のメンバーだった。

「昔みたいに小夏って呼んでも良い?」
「……はい」
「なんで千秋がむすくれてんだよ。嫉妬?」
「うっ、まあ嫉妬かもな。小夏と一番仲良しな男友達は俺だったと思いたい。……園田、お前まだ業務中だな?」
「ちぇっ、俺だって小夏と積もる話があるのに」
「うそうそ、全然いいよ。ちょっと大人げない意地悪な冗談」
「酷いぞ、千秋。小夏を独り占めしたかったからって。よっしゃ、小夏。いっぱい喋ろうぜ」
「あっ、うん」

 園田くんがスーツを着こなし、すっかり立派な社会人になっている。
 園田くんは学生の時はちょっぴりチャラい雰囲気だっただけに、ギャップが凄い。

 それにしても、二人が並ぶと絵になるな。
 学校の文化祭のプリンス&プリンセスコンで柊くんが1位で園田くんが2位だったっけ。

 私はキラキラな柊くんと園田くんの二人に圧倒され、気持ちが萎縮しちゃう。

「小夏と会えて嬉しい」
「ああっ、うん、ありがとう。園田くん、私も二人に会えて嬉しいよ」
「俺だけじゃないんだ」
「そんなわけないだろ。俺はお前より、小夏とはずっと前からの友達だからな」
「あー、マウント取ったな。千秋のドヤ顔、腹立つ〜」
「フフッ、当然」

 園田くんとは中高が同じ。
 柊くんは小中高に大学まで一緒だった。……柊くんが大学が同じだったのは小学校の頃に私と交わした約束を律儀に守ってくれたからなんだけどね。

「小夏はちっとも変わってないなあ。リスとかウサギとかみたいでさ、小動物っぽくて可愛いまんま」
「いや、今は綺麗が勝《まさ》ってる。小夏はそりゃ可愛いけど、すっごい綺麗になったよ。俺は藤宮が許せないね」
「たしかに許せねーな。俺らの大事な友達の小夏を裏切るなんて」
「ははは。あのっ、柊くんも園田くんも可愛いとか綺麗とか……ありがとう。お世辞でも嬉しい。でも、なんかむず痒いから、二人ともそんな褒めてくれなくって良いよ」
「「お世辞じゃない」」
「えっ? ……私、そんな容姿に自信ないし」
「小夏はキュートな美人なんだから自信持って」

 光が弾けたように柊くんが笑うと、その場がパアッと明るくなる。華やかさが満ちる。

 人見知りな私には、明るくて社交的な柊くんは憧れだった。
 柊くんは唯一無二の男性の親友で、お互いに助け合ってた。

 そして柊くんの友達な園田くんとも仲良くなって。
 私にとっては、気さくで人懐っこい園田くんは柊くんの次に仲良しな男友達で。
 二人とは気が張らずにお喋り出来るから、楽しかった。

 高校では柊くんと園田くんは、私達夫婦と同じクラスだったよね。
 園田くんはサッカー部で夫の颯くんとは部活も一緒。

「園田君、千秋様とのくだけた言葉での会話はプライベートでするように」
「はい。承知しました」
「小芝。共通の旧友の小夏もいるので、園田の業務は今日は終わりにする」
「良《よ》いのですか? 千秋様」
「ああ。だってせっかくの友人達との再会じゃないか。第一、話しにくいから」

 柊くんと執事の小芝さんとのやり取りをじっと黙って私は聞いていた。
 しっかし、リアルに執事とか……いるんですね。初めて見ました。

(ところで柊くん、執事とか秘書とか付いててすっごい世界に行っちゃったな〜)とか思っていたら、園田くんが言うには元々柊くんちはけっこうな名家でお坊ちゃんらしかった。
 柊くん、学生時代は気兼ねなく青春を謳歌したいとかで周りには家庭環境のことを黙っていたそうです。

 柊くんとの長い付き合いのなかで、なんとなく格式のあるお家なのかなとか感じたことはあったけど。
 家族の話をするのを柊くんはあまり好きそうじゃなかった。
 何気なくお兄ちゃんとかの話を聞いた時、柊くんの明るく朗らかな顔がいつもと打って変わったように沈んだ暗い顔で、悲しそうで。瞳には涙を浮かべさせてた。
 それはこの話題は私に触れてほしくないんだって気づいて、胸が痛んだ。


 促されて乗った車にはSPの方までいて、本当にびっくり! 私は住んでいる世界の違いに驚いちゃった。

 車の中はすごく広くって。
 リムジンみたいに運転席との空間が区切られてる。

「小夏、俺の家でちょっと話そうか?」
「えっ? うん。園田くんも一緒にでしょ?」
「ああ、まあ。俺は少し昔話に参加したらお暇《いとま》するよ。せっかくのデートだろ?」
「デートって……そんなわけないじゃない」
「行き先は柊の『プライベートキッチン兼自宅』だぜ? なんか過ちがあっても誰にも知られねーけど」
「園田。俺は小夏に事実を話すだけだ。やましいことはしないよ。大体、俺の妻の浮気を教えてくれたのは園田じゃないか。……相手が小夏の旦那さんってことも」
「小夏の旦那さんってお前。あの藤宮だろ。……柊だって友達だったのによそよそしいな」
「……妻の浮気相手にいちいち敬意を払ってらんないな」

 車内に重たい空気が流れた。
 私は、なにか喋らなくっちゃと思ったのに、上手く言葉が見つからない。

「まあまあ。俺は柊と小夏の味方だよ? 柊には助けてもらった恩義があるし。小夏、俺ね、大学時代に起業してキャンプ場の経営とプロデュース業やってたんだけど失敗したんだ。今、キャンプは何かとブームになってっけど、俺は最先端過ぎたんだな。山奥で集客率がイマイチだったもんで潰れた。でさ、柊に拾ってもらった」
「えっ、そうなんだ。……大変だったね。でも大学生で起業するとか、園田くん度胸あるよ」
「サンキュー、大失敗したけどな。時代を先取りしすぎた。でもな、柊が俺のだったキャンプ場を買い取ってくれてさ。復活させて、けっこう今は繁盛してるよ」
「俺はなにも特別なことはしてないよ。園田が造ったのは元々良いキャンプ場だよ。ちょっと宣伝とかしてさ、山奥だってことを逆手にとって誰にも干渉されない独りを満喫出来る隠れ家風って謳い文句で広めただけだ」

 柊くんと園田くんが経営のこととか話しているのを聞いていて、自分が別次元の世界に取り残されてる気分になってしまいました。

「で、小夏は? 今はなにやってるの?」
「えっ! 私?」
「そっ。小夏のお仕事」
「私、……そんな。二人のすごい話を聞いた後にするような華やかなものはないよ? 企業向けの食堂で料理の献立の開発とか食品サンプルを作ってる会社の……事務職です」

 柊くんと園田くんが同時に「へえ〜」って感心してくれる。

「小夏がOLかあ。俺、どっちかっていうと料理を作る方かと思った」
「俺も」
「料理部で一番料理の手際が良くって抜群に美味かったの、小夏の料理だから」
「えっ、えーっ! ……褒め過ぎだよ、柊くん」

 私はどんどん恥ずかしくなっていった。
 高校の時の部活の料理部では、私はおばあちゃん仕込みの家庭料理を振る舞ってた。料理部のみんなに食べてもらって『小夏の料理は美味しいね』って言ってもらえて、すごく嬉しかった。

 あの時は料理に対して自信が多少なりともあって得意だと思っていたけど、社会に出たら私の料理の腕なんて、全然レベルが高いものじゃなかった。

「小夏はてっきり料理人になるのかと思ってた」
「……うーん。……私、結婚してから夫婦の時間大切にしたかったんだよね。単純に、颯くん……夫と一緒に休日も過ごしたかったし」
「そっか。で、事務職か。新婚ホヤホヤだったんだもんな、夫婦で一緒にいたいって当然だよな。料理人は不定休だったりするしな」
「うん、二人でいる時間を大事にしたかったの。甘い時間に溺れていたくて離れたくなかった。それがこんな風になっちゃうだなんて」

 しんみりしてしまう。
 いけない、いけない。
 友達と再会して、せっかくの時間なのに。

「仕方ないよ、夫婦っつったって他人なんだし。でもさ、あれだ。小夏は俺みたいに、準備無しでいきなり相手を問い詰めたらダメだよ」
「えっ? 園田くんって」
「俺、バツイチ。子供はなし」
「大喧嘩して修羅場になってエライ騒ぎになるって。……小夏、俺も園田に釘刺された。だから正直これからどうしようかと。いったん煮えくり返った腹が落ち着いちゃったんだよね。そしたら、この先どう選択をしていけば良いのか迷って分からなくなってる」

 無理に苦笑いした柊くんは、悲しそうで苦しげで儚かった。