「実は以前からちょっとやってみたかったのよね。それに、あの人に色々教わりながらだったら、いい経営ができると思うの。そう決めたらわくわくしちゃって。看護師になった時みたいよ」
ななみは、編集長の母の変わりっぷりに、感激していた。人ってこんなに変われるんだ。いや、違う。もともとこんなやる気にあふれた人なんだ。大事な人が病に倒れて一時的に気弱になっていただけ。それでこそ、編集長のお母さんだ。
「編集長」
ななみが、編集長を見ると、笑顔だった。ななみも、微笑む。次のセリフを聞くまでは。
「あー、でも、びっくりしたわあ。ななみさんがいきなりうちにやって来た時は。何事かと思ったら『宗吾さんに、今の仕事をさせてください、お義父さんの介護は私も手伝いますから』って。すごい剣幕でねえ。私ですらビビったわ。まあ、そのお願いもあって、私も決断できたしね」
かーっと、ななみは顔を赤くした。確かに、あの日、電車に乗って、一人で編集長の実家に行った。そして、なんとか、編集長に今の仕事を辞めてほしくないと語ったのだ。あまりにも緊張していて、お願いしたので、正直何を口走ったのか今となっては覚えていない。とにかく必死だった。
少しでも、お母さんの心を押せたならよかった…
顔を赤くしたまま、うつむいて、そう思った。編集長が、手を伸ばして、ななみの髪の毛をくしゃっとさせた。嬉しそうに、微笑んでいる。
さらに、母は続けた。
「それと。後は丈太郎君のサプライズね。珍しく顔を見せたかと思ったら、俺達こういうのやってるんです、ってマスクドキングのライブの動画を見せられたのよ。音楽やりたがってたのは知ってたけど…まさか、きゃーきゃー言われる覆面バンドをやってるなんて、ほんと、びっくりしたわよ」
今度は、編集長の顔が赤くなる番だった。
「ジョー、お前、何で…!」
ジョーは、しれっとした顔で言った。
「バンド解散するかどうかの瀬戸際だったろ。俺にできる最善のことをしただけ」
「そうよ。こんなバンドやってるなんて、結構、親としては誇らしいわよ。早く知りたかったわ」
「チキショー…やられた…」
編集長は、再び顔を両手で覆って、天井を仰いだ。確かに秘密にしていた覆面バンド活動を親に知られる、というのはなかなか恥ずかしいかもしれない。
だからね、と母は声を改めた。
「宗吾。あんたは、今の仕事、編集業とバンド活動を精一杯やんなさい。こんな素敵な味方が二人もいるんだから」
編集長は、顔を覆っていた手を下して、かみしめるように笑った。
「うん。…母さん、ホテル経営、あんま無理すんなよ」
「何言ってんの、母さんが出てきたからには、業界トップをねらうわよ。あんたの叔父さん、道隆さんにだって、負けないわ」
うわ、ソウのおふくろさんらしー、とジョーが大声で言って、編集長もななみも、笑った。
「静かにしてください!何時だと思ってるんですか!」
全員が、看護師から怒られてしまった。
三か月後。
ななみは、昨日、編集長の母から絵葉書をもらった。仕事の合間に送ってくれたようだ。『宗吾は忙しくて来てくれないから、ななみちゃんだけでも遊びにきてね』と書いてあった。ホテルの再建は、うまくいっているらしい。あの業績を悪化させていた叔父親子は、母が入念に経理をチェックした結果、売り上げを着服していた事がわかり、役職を外された、とのことだった。
「悪いことはできねえなあ」
と、編集長は笑っていた。
そんなある日、ななみは、バー「reef」の休憩時間に、スマホをチェックした。すると、編集長からのラインが入っていた。
『ウッドストックでオーティス・レディングが歌ってるDVD手に入れたんだ。観にこないか』
金曜の夜だった。明日は、休日なのは、ななみも編集長も一緒だった。お誘いが嬉しくて、ななみはすぐに『行きます』と、返事をした。すぐに返信が来て『23時に迎えに行く』とあった。
バイトの終わりに、編集長が迎えに来てくれることが、たまにある。忙しい身なので、そんなにしょっちゅうじゃないけれど、時間を見つけて、今日みたいに逢おうとしてくれることを、ななみはじんわり、喜んでいる。
「あ、その顔は、デートのお誘いがあったね」
休憩からカウンターに戻ると、ななみは、かよにそう言われた。
「う。バレバレでしたか」
「ななみ、すぐ顔に出るからわかりやすいよ。で、そろそろじゃない?」
かよがにやっとしながら言う。かよとお互いの彼氏の話をするのは、楽しいのだけれど、最近、ちょっと困ったパターンができつつある。
「どうかなあ…私からは、わかんないよ」
かよが言う、そろそろとは、ななみが編集長とベッドを共にすることを指している。この三か月の間に、三回ほど、編集長の部屋に泊まった。バイト終わりのデートということで、そのまま飲みに行くこともあったのだが、疲れている編集長に、少しでも休んでほしくておうちデートを、ななみが提案した。
かよには、「積極的じゃん」と冷やかされたが、実際、編集長は疲れている。多忙極まる編集業の傍ら、バンドの練習までしているのだ。三か月前には病院で点滴のお世話になったくらいだ。もう同じことを繰り返すわけにはいかない、とななみは、栄養ドリンクを差し入れたり、おかずを作って行ったり、できることはやっている。
なので、ななみが
「おうちでまったりしませんか?」
と言うと、編集長が、微妙に嬉しそうな顔をした。それでおうちデートは三回ほど行われたわけだが…編集長は、三回とも、寝落ちした。
軽いつまみと酒を用意して、好きなミュージシャンのDVDを見ながら二人でくつろぐ。なかななかにいい時間だ。編集長の語るミュージシャンの蘊蓄だって面白い。ところが、夜の二時くらいになると、急に静かになる。横を見ると、編集長が、眠っている。起こすと可哀そうなくらい、ぐっすりと。
ななみは、さすがに編集長を抱えてベッドに連れていけないので、毛布をかける。それからテーブルの上を片づけ、メイクを落とし、編集長が背もたれにしているソファに寝る。
朝、編集長が起きると、ぼさぼさの髪の毛のまま、必ずこう言うのだ。
「よく寝たなあ。ななみの側だから、安心すんのかな」
その言葉にななみはヤられる。寝落ちするなんてひどいじゃないですか、とか、もう先に寝ちゃってーとか、女子が不満を言うパターンだと思うのだが、ななみはこの一言があるため、それも言えない。
「朝ごはんにしましょうか」
と、にっこり笑って言って、楽しい日曜の朝が始まる…。
「この間、ポーチドエッグがうまくいってさー、嬉しかったなー」
ななみが、最近のおうちデートの朝食の話をすると、かよがストップ!と言った。
「だからあ!あんた達、もっといちゃつきなさいよ!つきあい始めじゃないよ!」
「そ、そういうのは、人から言われてするものでも…」
ごにょごにょと、ななみは言う。ななみとしては、編集長が言った「勢いとかナシな」と言ったセリフを覚えていて、編集長も律儀にそれを守っているのでは、とも思うのだ。
しかし、三か月もつきあっていて、キス止まりなのは、おかしいと、かよが言い募るのが最近のパターンで、ななみも困っている。
ななみとしては、編集長に逢えて、まったりしているだけで、かなり満足度が高い。未だに横顔を盗み見て、「あの恰好いいライブをやる人を、今、独り占めしてるんだ…」などなど、喜びポイントは多い。
ただ、じゃあこのまま、編集長と、熟年夫婦のようなしみじみ感にずっと浸っていたいかと言うと、そうでもない。
ななみは、編集長の母の変わりっぷりに、感激していた。人ってこんなに変われるんだ。いや、違う。もともとこんなやる気にあふれた人なんだ。大事な人が病に倒れて一時的に気弱になっていただけ。それでこそ、編集長のお母さんだ。
「編集長」
ななみが、編集長を見ると、笑顔だった。ななみも、微笑む。次のセリフを聞くまでは。
「あー、でも、びっくりしたわあ。ななみさんがいきなりうちにやって来た時は。何事かと思ったら『宗吾さんに、今の仕事をさせてください、お義父さんの介護は私も手伝いますから』って。すごい剣幕でねえ。私ですらビビったわ。まあ、そのお願いもあって、私も決断できたしね」
かーっと、ななみは顔を赤くした。確かに、あの日、電車に乗って、一人で編集長の実家に行った。そして、なんとか、編集長に今の仕事を辞めてほしくないと語ったのだ。あまりにも緊張していて、お願いしたので、正直何を口走ったのか今となっては覚えていない。とにかく必死だった。
少しでも、お母さんの心を押せたならよかった…
顔を赤くしたまま、うつむいて、そう思った。編集長が、手を伸ばして、ななみの髪の毛をくしゃっとさせた。嬉しそうに、微笑んでいる。
さらに、母は続けた。
「それと。後は丈太郎君のサプライズね。珍しく顔を見せたかと思ったら、俺達こういうのやってるんです、ってマスクドキングのライブの動画を見せられたのよ。音楽やりたがってたのは知ってたけど…まさか、きゃーきゃー言われる覆面バンドをやってるなんて、ほんと、びっくりしたわよ」
今度は、編集長の顔が赤くなる番だった。
「ジョー、お前、何で…!」
ジョーは、しれっとした顔で言った。
「バンド解散するかどうかの瀬戸際だったろ。俺にできる最善のことをしただけ」
「そうよ。こんなバンドやってるなんて、結構、親としては誇らしいわよ。早く知りたかったわ」
「チキショー…やられた…」
編集長は、再び顔を両手で覆って、天井を仰いだ。確かに秘密にしていた覆面バンド活動を親に知られる、というのはなかなか恥ずかしいかもしれない。
だからね、と母は声を改めた。
「宗吾。あんたは、今の仕事、編集業とバンド活動を精一杯やんなさい。こんな素敵な味方が二人もいるんだから」
編集長は、顔を覆っていた手を下して、かみしめるように笑った。
「うん。…母さん、ホテル経営、あんま無理すんなよ」
「何言ってんの、母さんが出てきたからには、業界トップをねらうわよ。あんたの叔父さん、道隆さんにだって、負けないわ」
うわ、ソウのおふくろさんらしー、とジョーが大声で言って、編集長もななみも、笑った。
「静かにしてください!何時だと思ってるんですか!」
全員が、看護師から怒られてしまった。
三か月後。
ななみは、昨日、編集長の母から絵葉書をもらった。仕事の合間に送ってくれたようだ。『宗吾は忙しくて来てくれないから、ななみちゃんだけでも遊びにきてね』と書いてあった。ホテルの再建は、うまくいっているらしい。あの業績を悪化させていた叔父親子は、母が入念に経理をチェックした結果、売り上げを着服していた事がわかり、役職を外された、とのことだった。
「悪いことはできねえなあ」
と、編集長は笑っていた。
そんなある日、ななみは、バー「reef」の休憩時間に、スマホをチェックした。すると、編集長からのラインが入っていた。
『ウッドストックでオーティス・レディングが歌ってるDVD手に入れたんだ。観にこないか』
金曜の夜だった。明日は、休日なのは、ななみも編集長も一緒だった。お誘いが嬉しくて、ななみはすぐに『行きます』と、返事をした。すぐに返信が来て『23時に迎えに行く』とあった。
バイトの終わりに、編集長が迎えに来てくれることが、たまにある。忙しい身なので、そんなにしょっちゅうじゃないけれど、時間を見つけて、今日みたいに逢おうとしてくれることを、ななみはじんわり、喜んでいる。
「あ、その顔は、デートのお誘いがあったね」
休憩からカウンターに戻ると、ななみは、かよにそう言われた。
「う。バレバレでしたか」
「ななみ、すぐ顔に出るからわかりやすいよ。で、そろそろじゃない?」
かよがにやっとしながら言う。かよとお互いの彼氏の話をするのは、楽しいのだけれど、最近、ちょっと困ったパターンができつつある。
「どうかなあ…私からは、わかんないよ」
かよが言う、そろそろとは、ななみが編集長とベッドを共にすることを指している。この三か月の間に、三回ほど、編集長の部屋に泊まった。バイト終わりのデートということで、そのまま飲みに行くこともあったのだが、疲れている編集長に、少しでも休んでほしくておうちデートを、ななみが提案した。
かよには、「積極的じゃん」と冷やかされたが、実際、編集長は疲れている。多忙極まる編集業の傍ら、バンドの練習までしているのだ。三か月前には病院で点滴のお世話になったくらいだ。もう同じことを繰り返すわけにはいかない、とななみは、栄養ドリンクを差し入れたり、おかずを作って行ったり、できることはやっている。
なので、ななみが
「おうちでまったりしませんか?」
と言うと、編集長が、微妙に嬉しそうな顔をした。それでおうちデートは三回ほど行われたわけだが…編集長は、三回とも、寝落ちした。
軽いつまみと酒を用意して、好きなミュージシャンのDVDを見ながら二人でくつろぐ。なかななかにいい時間だ。編集長の語るミュージシャンの蘊蓄だって面白い。ところが、夜の二時くらいになると、急に静かになる。横を見ると、編集長が、眠っている。起こすと可哀そうなくらい、ぐっすりと。
ななみは、さすがに編集長を抱えてベッドに連れていけないので、毛布をかける。それからテーブルの上を片づけ、メイクを落とし、編集長が背もたれにしているソファに寝る。
朝、編集長が起きると、ぼさぼさの髪の毛のまま、必ずこう言うのだ。
「よく寝たなあ。ななみの側だから、安心すんのかな」
その言葉にななみはヤられる。寝落ちするなんてひどいじゃないですか、とか、もう先に寝ちゃってーとか、女子が不満を言うパターンだと思うのだが、ななみはこの一言があるため、それも言えない。
「朝ごはんにしましょうか」
と、にっこり笑って言って、楽しい日曜の朝が始まる…。
「この間、ポーチドエッグがうまくいってさー、嬉しかったなー」
ななみが、最近のおうちデートの朝食の話をすると、かよがストップ!と言った。
「だからあ!あんた達、もっといちゃつきなさいよ!つきあい始めじゃないよ!」
「そ、そういうのは、人から言われてするものでも…」
ごにょごにょと、ななみは言う。ななみとしては、編集長が言った「勢いとかナシな」と言ったセリフを覚えていて、編集長も律儀にそれを守っているのでは、とも思うのだ。
しかし、三か月もつきあっていて、キス止まりなのは、おかしいと、かよが言い募るのが最近のパターンで、ななみも困っている。
ななみとしては、編集長に逢えて、まったりしているだけで、かなり満足度が高い。未だに横顔を盗み見て、「あの恰好いいライブをやる人を、今、独り占めしてるんだ…」などなど、喜びポイントは多い。
ただ、じゃあこのまま、編集長と、熟年夫婦のようなしみじみ感にずっと浸っていたいかと言うと、そうでもない。



