ななみは、しゃくりあげた。
編集長は、一歩進んで、泣いているななみを抱きしめた。
編集長の身体の暖かさが、ななみの涙をさらに誘う。
「ごめ…へん…」
言葉が言葉にならない。
「北条」
編集長が、腕にぐっと力を入れて、ななみをさらに抱きしめた。そして、絞り出すような声を出して、言った。
「俺も…どうしたらいいか、わかんねえんだよ…」
四十周年イベント当日。午後19時。
キャパ400人のライブハウス海月は、ぎっちりと観客でうまっていた。国民的人気バンドW4が出ると聞きつけて、殺到した客。多数の出演バンドそれぞれの熱狂的ファン。
そういった人々が集まったのだから、観客があふれるのは予想どおりだった。ななみは何とか、観客席の真ん中辺りでステージを見ることができた。
ライブの前半はまだ知名度の薄いバンドが演奏するので、観客席はもうひとつノリが悪かった。そんな中、ななみはマスクドキングのステージを、ただひたすら待っていた。
昨日、編集長は、どうしたらいいのかわからない、と呟いた。おそらく、それが本音なのだ。だから、まだ編集長が、今後どうするかは、決まっていない。
お母さんのために、今の仕事を辞めてホテルを継ぐのか。
今まで通り、編集の仕事とキングをやるのか。
どちらも選べていないのだ。
だが、もしも。編集長が、ホテルを継ぐ決心をしたのなら。
このライブがキングのラストライブになる可能性だってある。
そう思うと、ななみは、胸を締め付けられる思いがした。駄々をこねる幼児のように、昨日は、自分の気持ちをぶちまけてしまった。
もう、やれることは、し尽くした。ななみは、どこか静かな気持ちでそう考えた。
いつも思うことだが、今日はなおのこと、キングのライブを目に焼き付けよう、そう思った。
二つのバンドの演奏が終わり、いよいよマスクドキングの出番となった。
ファンのいるところから、「キング!キング!」と声援が飛ぶ。ななみの予想よりも、キングのファンは多かった。キングの名を叫ぶ声はどんどん大きくなっていった。
ソウとジョーがステージ現れ、歓声があがる。ななみは、ぎゅっと手を握りしめて、食い入るようにソウを見た。いつものようにアイマスクをしている。
でも、その下に、照れ屋で優しい、男の顔が隠れていることを、ななみはもう、知っている。
「マスクドキングです」
ソウがマイクでそう言うと、ジョーが素早くギターをかき鳴らして、演奏を開始した。
キングの一番の人気曲だ。思わず、ななみは前のめりになる。
一曲目で会場は暖まり、2曲目、3曲目と続くと、観客席は、熱い渦のようになっていった。今日、初めてキングを知った客も、きっとたくさんいるはずだ。帰りにネットでチェックしようと思ったり、物販でCDを買って帰ろうと思ったり。そんな観客一人一人の気持ちが、ななみには、手に取るようにわかる。
今日、キングを知って、大好きになった人だってきっといるのに…
それなのに、今日がラストライブかもしれない、と思うとつらさが倍になってやってくる。
だめだ、ライブに集中しないと。
ななみは、いつも以上に、歌うソウを見つめた。昨日、ななみが作った料理を食べたのかどうかはわからないけれど、ソウの調子は悪くなかった。逆にいつもよりもいいくらいだった。声もよく出ている。
ふっきれた…?
ななみは、そう感じた。編集長の中の、心の揺れが、止ったのかもしれない。
これから、どうするか、決まった…。
ななみは、自分の心がざわめくのを抑えきれなかった。ライブが終わったら、自分は、ソウに、編集長に会うだろう。そして、聞かされるのだ。
どんな決断を、くだしたかを。
きりり、と胸の奥が痛んだ。ななみは、この3曲目が終わらなければいいのに、と本気で思った。
しかし、そんなななみの願いは届くはずもなく。演奏は、終わりに近づいた。
ファンは、未だに「キング!キング!」と叫んでいる。
ソウが歌い終わった、そう思った瞬間。
誰もが、はっと息を飲む間に、それは起こった。
ソウの頭上にあった大きなライトが、瞬く間にステージに落ちたのだ。
ななみは、声をあげようとしたが、声にならなかった。
ななみとジョーは肩を並べて、編集長の横たわっているベッドの脇に座っていた。
「ん…」
ななみは、はっとして、編集長の方へ身体を近づけた。
「編集長?」
ゆっくりと、編集長のまぶたが開く。
「ジョー。…ライブは」
「中止になったよ。ライブハウスの老朽化でライトが落ちて。さすが四十周年。マスクドキング、今度こそネットニュースに載るかもな、ライブ中に災難ばかり起こるバンドとして」
ななみの横にいたジョーが言った。
「ほんとだな…オレ、なんで点滴打ってるんだ?」
編集長が、不思議そうに自分とつながっている管を見て言った。編集長は、救急車でこの病院に運ばれた。たまたま病院の個室しか空いていなくて、今、利用している状態だ。時計の針は23時を指している。
「編集長はライトがすぐ側に落ちたんで、よろけて頭をスピーカーにぶつけたんです。それで軽い脳震盪を起こして。でも、今の今まで眠っていたのは過労のせいです。寝ない、食べないでライブをやるなんて自殺行為だってお医者様が怒っていました。だから、点滴で今、栄養をもらってるところなんですよ」
ななみが、にらむようにして、言う。
「はあ…オレ、てっきりライトがぶつかって死んだかと思った」
「そんなに簡単に死なれたら、困ります」
にらんでいたのに、いつのまにか涙目になっていた。よかった。編集長は、また元気になる。
生きてさえいてくれればいい。
ななみは、眠り続ける編集長の傍らで、そう思うようになった。
生きてさえいれば、編集長がどんな選択をしたっていい。
編集業やバンドを辞めて、ホテル経営をするのなら、それもいい。
そう、本心から思えるようになった。
ななみは自分の涙をぬぐって、立上った。
「編集長、お腹すいてませんか?私、何か買ってきます。この時間じゃコンビニになるけど」
「ななみ、ジョー」
編集長は、さっきまでしていた呆然とした顔つきを改めていた。頭上の天井を見つめ、それから両手で顔を覆って言った。
「ライトが落ちて来た時、俺、死ぬかもなあって思って。そん時、考えた…俺、バンドも編集も、辞めたくねえなーって…」
「!」
ジョーとななみは顔を見合わせた。
静かに、編集長は、言葉を続けた。
「もちろん、義父のことも考える。なんとか、しねえとな」
「そのことなら、もういいわ」
病室のドアが開き、女性が入ってきた。編集長の母親だった。ジョーが連絡入れておいた、と言っていたので、タクシーを飛ばして来たのだろう。
「もういいって、母さん?」
編集長が、自分の母を驚いた目で見た。
母は、穏やかな眼差しで言った。
「ごめんね、宗吾。悩ませちゃったわね。年のせいかな、気弱になって、あんたに頼ったこと、後悔してる。父さんの病状が落ち着いてきたのよ。最近飲み始めた薬が合ってたみたい。さすがに仕事に復帰とまではいかないけど、日常生活を自宅で普通に送れるようになったの」
「そうか…」
編集長が、心の底から、安堵した声を出した。ミキオを亡くしたことのある編集長には、義父の病状がずいぶん重くのしかかっていたことだろう。
「それで、よ。私が、ホテルの経営をすることにしたわ」
母が、にっこりと笑って言った。
「えっ」
これには、編集長、ななみ、ジョーの声が揃った。
編集長は、一歩進んで、泣いているななみを抱きしめた。
編集長の身体の暖かさが、ななみの涙をさらに誘う。
「ごめ…へん…」
言葉が言葉にならない。
「北条」
編集長が、腕にぐっと力を入れて、ななみをさらに抱きしめた。そして、絞り出すような声を出して、言った。
「俺も…どうしたらいいか、わかんねえんだよ…」
四十周年イベント当日。午後19時。
キャパ400人のライブハウス海月は、ぎっちりと観客でうまっていた。国民的人気バンドW4が出ると聞きつけて、殺到した客。多数の出演バンドそれぞれの熱狂的ファン。
そういった人々が集まったのだから、観客があふれるのは予想どおりだった。ななみは何とか、観客席の真ん中辺りでステージを見ることができた。
ライブの前半はまだ知名度の薄いバンドが演奏するので、観客席はもうひとつノリが悪かった。そんな中、ななみはマスクドキングのステージを、ただひたすら待っていた。
昨日、編集長は、どうしたらいいのかわからない、と呟いた。おそらく、それが本音なのだ。だから、まだ編集長が、今後どうするかは、決まっていない。
お母さんのために、今の仕事を辞めてホテルを継ぐのか。
今まで通り、編集の仕事とキングをやるのか。
どちらも選べていないのだ。
だが、もしも。編集長が、ホテルを継ぐ決心をしたのなら。
このライブがキングのラストライブになる可能性だってある。
そう思うと、ななみは、胸を締め付けられる思いがした。駄々をこねる幼児のように、昨日は、自分の気持ちをぶちまけてしまった。
もう、やれることは、し尽くした。ななみは、どこか静かな気持ちでそう考えた。
いつも思うことだが、今日はなおのこと、キングのライブを目に焼き付けよう、そう思った。
二つのバンドの演奏が終わり、いよいよマスクドキングの出番となった。
ファンのいるところから、「キング!キング!」と声援が飛ぶ。ななみの予想よりも、キングのファンは多かった。キングの名を叫ぶ声はどんどん大きくなっていった。
ソウとジョーがステージ現れ、歓声があがる。ななみは、ぎゅっと手を握りしめて、食い入るようにソウを見た。いつものようにアイマスクをしている。
でも、その下に、照れ屋で優しい、男の顔が隠れていることを、ななみはもう、知っている。
「マスクドキングです」
ソウがマイクでそう言うと、ジョーが素早くギターをかき鳴らして、演奏を開始した。
キングの一番の人気曲だ。思わず、ななみは前のめりになる。
一曲目で会場は暖まり、2曲目、3曲目と続くと、観客席は、熱い渦のようになっていった。今日、初めてキングを知った客も、きっとたくさんいるはずだ。帰りにネットでチェックしようと思ったり、物販でCDを買って帰ろうと思ったり。そんな観客一人一人の気持ちが、ななみには、手に取るようにわかる。
今日、キングを知って、大好きになった人だってきっといるのに…
それなのに、今日がラストライブかもしれない、と思うとつらさが倍になってやってくる。
だめだ、ライブに集中しないと。
ななみは、いつも以上に、歌うソウを見つめた。昨日、ななみが作った料理を食べたのかどうかはわからないけれど、ソウの調子は悪くなかった。逆にいつもよりもいいくらいだった。声もよく出ている。
ふっきれた…?
ななみは、そう感じた。編集長の中の、心の揺れが、止ったのかもしれない。
これから、どうするか、決まった…。
ななみは、自分の心がざわめくのを抑えきれなかった。ライブが終わったら、自分は、ソウに、編集長に会うだろう。そして、聞かされるのだ。
どんな決断を、くだしたかを。
きりり、と胸の奥が痛んだ。ななみは、この3曲目が終わらなければいいのに、と本気で思った。
しかし、そんなななみの願いは届くはずもなく。演奏は、終わりに近づいた。
ファンは、未だに「キング!キング!」と叫んでいる。
ソウが歌い終わった、そう思った瞬間。
誰もが、はっと息を飲む間に、それは起こった。
ソウの頭上にあった大きなライトが、瞬く間にステージに落ちたのだ。
ななみは、声をあげようとしたが、声にならなかった。
ななみとジョーは肩を並べて、編集長の横たわっているベッドの脇に座っていた。
「ん…」
ななみは、はっとして、編集長の方へ身体を近づけた。
「編集長?」
ゆっくりと、編集長のまぶたが開く。
「ジョー。…ライブは」
「中止になったよ。ライブハウスの老朽化でライトが落ちて。さすが四十周年。マスクドキング、今度こそネットニュースに載るかもな、ライブ中に災難ばかり起こるバンドとして」
ななみの横にいたジョーが言った。
「ほんとだな…オレ、なんで点滴打ってるんだ?」
編集長が、不思議そうに自分とつながっている管を見て言った。編集長は、救急車でこの病院に運ばれた。たまたま病院の個室しか空いていなくて、今、利用している状態だ。時計の針は23時を指している。
「編集長はライトがすぐ側に落ちたんで、よろけて頭をスピーカーにぶつけたんです。それで軽い脳震盪を起こして。でも、今の今まで眠っていたのは過労のせいです。寝ない、食べないでライブをやるなんて自殺行為だってお医者様が怒っていました。だから、点滴で今、栄養をもらってるところなんですよ」
ななみが、にらむようにして、言う。
「はあ…オレ、てっきりライトがぶつかって死んだかと思った」
「そんなに簡単に死なれたら、困ります」
にらんでいたのに、いつのまにか涙目になっていた。よかった。編集長は、また元気になる。
生きてさえいてくれればいい。
ななみは、眠り続ける編集長の傍らで、そう思うようになった。
生きてさえいれば、編集長がどんな選択をしたっていい。
編集業やバンドを辞めて、ホテル経営をするのなら、それもいい。
そう、本心から思えるようになった。
ななみは自分の涙をぬぐって、立上った。
「編集長、お腹すいてませんか?私、何か買ってきます。この時間じゃコンビニになるけど」
「ななみ、ジョー」
編集長は、さっきまでしていた呆然とした顔つきを改めていた。頭上の天井を見つめ、それから両手で顔を覆って言った。
「ライトが落ちて来た時、俺、死ぬかもなあって思って。そん時、考えた…俺、バンドも編集も、辞めたくねえなーって…」
「!」
ジョーとななみは顔を見合わせた。
静かに、編集長は、言葉を続けた。
「もちろん、義父のことも考える。なんとか、しねえとな」
「そのことなら、もういいわ」
病室のドアが開き、女性が入ってきた。編集長の母親だった。ジョーが連絡入れておいた、と言っていたので、タクシーを飛ばして来たのだろう。
「もういいって、母さん?」
編集長が、自分の母を驚いた目で見た。
母は、穏やかな眼差しで言った。
「ごめんね、宗吾。悩ませちゃったわね。年のせいかな、気弱になって、あんたに頼ったこと、後悔してる。父さんの病状が落ち着いてきたのよ。最近飲み始めた薬が合ってたみたい。さすがに仕事に復帰とまではいかないけど、日常生活を自宅で普通に送れるようになったの」
「そうか…」
編集長が、心の底から、安堵した声を出した。ミキオを亡くしたことのある編集長には、義父の病状がずいぶん重くのしかかっていたことだろう。
「それで、よ。私が、ホテルの経営をすることにしたわ」
母が、にっこりと笑って言った。
「えっ」
これには、編集長、ななみ、ジョーの声が揃った。



