Stayhere! 上司は××××で御曹司

 ふっ、と空気が動いた。ジョーの思いがけない言葉に、ななみがうつむいていた顔をあげる。
「どういうことですか…」
「やっぱり、知らないんだ。そうじゃないかな、と思って、これ、持ってきたんだ」
 そう言って、テーブルの上に、定期を入れるようなパスケースを置いた。
「ソウは、ライブの時、いつもこれをズボンのポケットに入れてる。ほら、俺の住まいってキングの楽屋みたいなもんだから。衣装とか、ライブで使うもの、ほとんどあるんだ。だから、それもあって。中身、見てごらん。年季が入っているから、そっとね」
 ななみは、訳もわからず、おずおずとパスケースに手を伸ばした。パスケースの中には、折りたたんだ紙が入っていた。年季が入っているという意味がわかった。少し古い紙だ。何度も折りたたんだようなあとがついている。
 ななみは、そっと紙を開き、そこに書いてある文章を読んだ。

『マスクドキングのソウ様
 はじめまして私の名前は、北条ななみと言います』

 がたっ、と音をさせて、ななみは立上った。
「ジョーさん、これって…!」
「そう。北条ななみさん。つまり、ななみちゃんからもらったメールをプリントアウトしたもんだよ。懐かしいでしょ。結構、最初の頃のものだから」
「そんな、なんで」
 ななみは事態を理解できず、他の2枚の紙も見る。やはり、ななみが書いたメールを印刷したものだった。
「ジョーさん…?」
「びっくりするよね。でも、ななみちゃんのメールに、俺達は助けられたんだ。ミキオが死んで、俺とソウだけの路上が始まったばっかり頃。ぱらぱら拍手はもらうけど、CDはさっぱり売れないし、どうしたらいいかわからなかったんだよね。そんな頃、俺がキングのHPを立ち上げたら、ななみちゃんからメールがくるようになってさ。それも、よくあるかっこいいとか、好きです、だけのいわゆるファンメールじゃないんだよな。この曲のここがよかったとか、これはあのバンドから影響受けてますねとか、いちいち的を得てるんだよね。なんか、こいつすげえなって、ソウと二人でよく盛り上がったよ」
「嘘…」
 そんな。まさか。そんなことが。ななみは驚きすぎて、思考が追いつかない。
「そんなもんだよ。バンドなんて、どう舵を取ればいいか、なんて誰も教えてくれないから。ななみちゃんのメール読んで、俺達、方向間違ってないよな、って自信が持てたんだ。だから、その最初の頃にもらったメールはソウのお守りなんだ。間違った方向にいかないように。初心を忘れないようにってね。だから、未だにソウはそのメールを、必ずズボンのポケットに入れてからライブで歌うんだ」
 それからね、とジョーさんは、にやっと笑って言った。
「ロックアウト社にななみちゃんが、面接に来たときも、ソウは大喜びで、すごかったよ。北条ななみの本物が来た!って大騒ぎしてさあ。ななみちゃん、面接で熱弁ふるっただろ?ソウ、北条ななみはやっぱり熱い奴だった、って感動してたよ。ロックアウトのお偉いさんには、ウケがいまいちだったんだけど、バイトとして入れてくれ、って頼んだのはソウなんだ」
「え…」
「公私混同もすごいけど、ソウとしては、どうしても一緒に働いてみたかったみたい。俺にぼそっと言ったことある。ストライクゾーンすぎて、困るって」
 気が付いたら、ななみは目に涙をにじませていた。
「あーあ、みんな喋ったって言ったら、ソウ怒るかなあ。まあ、いいや。あいつ照れ屋だから、死ぬまで言いっこないからね。俺が言ってやんないと。ね?ななみちゃん、俺達を救ってるんだよ。わかった?」
 こくり、と頷くしかなかった。ミキオの墓参りの帰り、レストランで、初めてジョーと会った時、「ああ、あの北条ななみ」そう、ジョーは言った。やっと納得できた。ななみの知らないところで、「北条ななみ」はどうやら少しは役に立っていたらしい。
 CDを聴いて、震えるような感動をして。熱い想いがわいてきた、あの日。返事なんてもらえなくていい、でも伝えたい、この気持ちを。
 そう思って、思いのたけをタイプした。メールの返事は来なかったけれど、その仲良しごっこをしない感じ、それもキングらしいと思っていた。だから、なんの返事がなくても何度もメールした。ひょっとしたら、読んでくれるかもしれない。そのわずかなパーセンテージを期待して。
 届いてた…私の気持ち。
 後から、あとから、嬉しさで涙が出てきた。ジョーに悪い、と思っても、涙が止まらない。
 ジョーが、「泣かせたのバレたら、ソウに殺されるよ」と呟いた。

 翌日。ななみは、会社を早引けして、駅の前に立っていた。
 神様。私に、力を貸してください。
 そう祈って、改札口へ入って行った。

 明日は、マスクドキングが定期的にライブをやっている、ライブハウス海月の四十周年記念イベントの日だ。海月からメジャーデビューした大御所バンドもいくつかあり、トリに演奏するのは、国民的人気バンド、W4だ。キングはまだまだ下っ端で、最初から三番目に演奏することになっている。キングは年に数回しかライブをしない。ついこの間ライブをやったばかりなのだが、今回の四十周年イベントは、お世話になっている恩義を表して参加することとなった。
 イベント前日の、土曜日の夜。紙袋を下げて、ななみは、編集長の部屋に訪れた。
「北条、来てくれたのか」
 そう言って、ななみを部屋にあげてくれたけれど、顔が青白い。昨日、深夜まで編集部の仕事が忙しかったのをななみは知っている。ろくに寝てもいないし、食事だってちゃんと取っているのかどうか。
「編集長、そんなにやつれてたら、明日のライブなんてできませんよ」
「大丈夫だ。三曲だけだからな。なんとかなる」
 ななみは、紙袋からたくさんのタッパーを取り出した。
 殺風景で何もないキッチンの流し台の上に積み上げて、どんどん空っぽの冷蔵庫に入れていく。
「何だ、それ」
「編集長の好みのおかずを作りました。明日までにめいっぱい食べてください。体力、つけないと」
「へえー。作ってくれたんだ。悪いな」
 編集長のゆるい、何でもない言葉が、なおさら、胸にぐっとくる。
 紙袋の中身はもう冷蔵庫にしまってしまった。
 もう、できることはない。
「…お邪魔しました」
「ん?もう、帰るのか?」
 きょとんとした顔をして、編集長が言う。
 ななみは、顔をじっと見てしまうと、余計なことを言いそうで、目をそらした。編集長の前を横切って玄関先で靴を履く。体を起こすと、正面に立つ、編集長と目が合ってしまう。
 言わないで帰ろうと思っていたが、編集長の目を見たら、決意がどこかへ行った。
「編集長。私、ずっと考えてました」
 ななみの思いつめた声に、編集長の顔つきが改まる。
「ずっと、ずっと考えてたんです。大人の、ちゃんとした女性だったら、こんな時、なんて言うんだろうって。その人のしたいようにさせるのが愛だ、って理屈ではわかるんです。大人の女性なら、あなたのしたいようになさいな、とか言うんだろうなって想像はつきました」
 編集長は瞬きもせず、ななみを見ている。
「だから、そんな風に編集長のしたいようにって思ったんですが、ダメでした!」
 ななみは、間髪入れずに続けた。
「私、エゴイストなんです。わがままでひどい奴なんです。編集長のお義父さんのこと考えたけど、やっぱりダメなんです。私、編集長ともっと一緒に働きたいし、もっとキングのソウが歌ってるとこ見たいんです!何度考えても、どうしてもそう思っちゃうんです!」
「北条…」
 編集長が、すごく優しい顔つきでななみを呼んだ。ななみは、ぶわっと涙腺が壊れた。
「編集長、悩んで、つらいのに…ごめんなさい…私、わがまま…」