「また明日から編集部で会えるんだから…」
そう、自分に言い聞かせた。
夜空に透き通った月が出ていた。
それから数日。編集長は、自分の机で、ぼんやり考え事をすることが多かった。仕事に支障が出るほどではなかったけれど、どこか上の空だった。
そんな編集長を見て、こずえは言った。
「どうしたのかしらね、編集長。調子わるいみたい。恋煩いかな、なんてね」
ななみは、苦笑いして答えるしかなかった。食事もろくにしていないようで、ななみはこっそりデスクにコンビニのサンドイッチを置いたりしたが、手をつけていなかった。
食事も忘れるほど、編集長の心の内を占めているもの。それは、やはり編集長の母の、「ホテルを継いでほしい」という懇願だろう。「あんなおふくろ初めて見た」というのは、まさしく本音で。
どれだけ自分の母親が追い詰められているか知った、ということを言外に含んでいる。
ななみは、もし自分だったら、と考えた。福岡の父が病に倒れ、母が看病に疲れ、帰ってきて、と言ってきたら。ななみは駆けつけたい衝動に駆られるだろう。
でも、そうしたら仕事は?という問題が残る。ななみの場合、見習いバイトなので、休みをもらう。休みをもらえず、クビになるパターンもあるだろう。それでも、やはり親元に駆けつけるだろう、と思う。
じゃあ、編集長はどうだろう。ななみの仕事と違って、編集長の責任は比べ物にならないくらい重い。簡単に投げ出したり、休むわけにはいかない。
そして、マスクドキングだってそうだ。ライブの回数は少ないものの、練習はきっちり続けなければ、バンドの力が弱っていってしまう。せっかく今、いい上り調子がきているだけに、今、長期の休みを取ることは、バンドとして致命的なのではないか。
そこまで考えると、ななみは思考がストップしてしまう。
編集長の義父のことも考える。うつ病なのだから、どんな精神状態になるかが肝だ。
もし、編集長がホテルを継いだら、どんなに安心して喜ぶことだろう。うつ病の状態だってよくなるかもしれない。
それは、わかる。わかるけれど。
自分の仕事が一区切りついたところで、ななみは、編集長にコーヒーを持って行った。ちょうど、飲みたくなる頃合いだ。
「編集長、コーヒー置いていきますね」
いつもだったら、ななみの目を見て、「おう」と言ってくれるところだ。
けれど、編集長はパソコンを見たまま、ぼんやりしていた。もう一度、声をかければきづくかもしれない。しかしそれはせず、編集長の机の上にコーヒーを置いて戻ってきた。
ななみの胸の内に、むくむくとわきあがってきたのは、悔しさ、だった。
こんな時、大人の女性だったら、素敵な励ましの言葉が出てくるのかな…
ななみには、なんと言うのが適切なのかわからなかった。
何か、言ってあげたい、そう思ってるのに。
ななみは、PCの画面を見ながらため息をついた。
夕方。ななみは、かよとバー「reef」でバイトに入っていた。かよから、ななみ、ぼんやりしてるね、と言われてしまった。かよに話を聞いてもらおうか、とも思ったがキングのバンド活動のことは触れられないので、うまく喋れる自信がなく、黙っていた。
胸の内にはいつも編集長の沈んだ顔があって、どうにもできない自分にもどかしさを感じるばかりだ。そんな事を考えながらグラスを磨いていると、
「ななみちゃん。ほんとにいた」
不意に声をかけられて顔をあげると、少し長髪で髪の毛くくった男性がそう言った。
「ジョーさん!」
思わずななみが声をあげると、ジョーが人差し指を唇にあてた。そうだった。この人がジョーだとバレたらいけないんだ、とななみは自分に言い聞かせた。
「あいつに聞いたら、ななみちゃんが、ここでバイトしてるって言うから、来ちゃった」
朗らかに微笑まれて、ななみもつられて笑みを作った。
「ね、少し話がしたいんだけど。そこのボックス席でちょっと話せないかな」
ちょうど、店内に客はおらず、ジョーだけだった。キッチンで在庫チェックをしていたかよに知り合いがきたと話した。少しだけ店番を抜けたいと頼む。
「いいよ。マスター来たら、緊急の用事で、とかなんとか言ってあげる。いってきなよ」
と、言ってくれた。ありがたかった。じゃあ、ちょっとだけ、そう言ってななみは黒のエプロンを外した。
ジョーがボックス席の椅子に座り、ななみも向かいの席に座った。コーヒーを出すと、ありがとう、と言ってくれた。コーヒーを一口飲んでから、ジョーは言った。
「早速なんだけど。ソウ、あいつ何かあった?この間の休み明けから、なんか様子が変なんだよ。どっか上の空っていうか。いつもは、練習の鬼なのにさ」
「そうだったんですか…」
やっぱり、バンド活動にも影響が出てたんだ、と納得する。そして、編集長の悩みの大きさがハンパじゃないことも、しっかり伝わってきた。
ななみは、意を決してジョーに話すことを決めた。全てをわかっていて、話せる人は、ジョーしかいなかった。
ななみは、編集長の義父の病状、母の懇願、叔父親子の嫌がらせについて、ひとつひとつ語っていった。
コーヒーをぐい、と飲んでジョーは言った。
「なるほどね。話はわかった。俺も、発煙筒騒ぎはあのバカ道也のせいだろうな、って薄々感じてたんだよ。俺は、ソウとは幼馴染だから、その辺の関係もよく知ってんだ。
それよりも、今回の問題の根っこは、ソウの母親の必死のお願い、だろうな」
ななみは深く頷いた。
「あの気丈なおふくろさんが、そんなに必死に頼んで来たら、心も揺れるだろうなあ。それにさ、ななみちゃん。ななみちゃんは、ミキオのこと、聞いてる?」
「はい。片岡ミキオさん。メンバーだった方ですよね」
「そう。ミキオが死ぬ前に、自分の代わりにボーカルやってくれって言ったから、ソウは引き受けた。俺達がミキオのためにやれることはバンドを続けるくらいだった。ミキオの死ぬまでの間、もっと何かしてやれなかったかな、そんな気持ちは、今だってある。
そして、今度の問題だ。今度の場合、ソウの義理の親父さんは、うつ病で。ソウが跡を継げば、病状がよくなる可能性だってある。ミキオの時は、どうすればよかったかわからなかったけど、今回はもう正解がある。ソウが、ホテルを継げばいい。ミキオの時、後悔した分、ソウは、今度こそ後悔しないように、お母さんのためになることをしたいはずなんだ。人間って同じ過ちはしたくないからな」
ななみは、自分の手をぎゅっと握った。
「でもさ。あいつは、編集の仕事を愛しているし、マスクドキングだって昇り調子だ。今、この二つの仕事から離れるなんて、できないはずだ。だから、揺れてる」
ジョーの言う通りだとななみは思った。編集長は、きっとお母さんを助けたいのだ。シングルマザーでバリバリ働いて自分を育ててくれたお母さん。気丈で、今まで編集長を頼ったことなんかなかったのに、今度だけは、違った。その事が、編集長の胸に刺さってる。
「ジョーさん、私」
ななみの、声がかすれた。
「ジョーさん、私、悔しいんです。編集長が、ものすごく悩んでるのなんて、よくわかってるのに、何て言ってあげていいかわからないんです。私は、キングの歌に何度も助けられた。もちろん、今の仕事だって、編集長に助けられてます。それなのに、私には、編集長にしてあげられることが何もないんです。本当に、何も。それが悔しくて」
ななみは、唇をかんだ。想いを口にすると、心にずんと響いた。
なんて、無力なんだろう、私。
「ななみちゃん、ソウや俺に何もしてないと思ってるの?」
そう、自分に言い聞かせた。
夜空に透き通った月が出ていた。
それから数日。編集長は、自分の机で、ぼんやり考え事をすることが多かった。仕事に支障が出るほどではなかったけれど、どこか上の空だった。
そんな編集長を見て、こずえは言った。
「どうしたのかしらね、編集長。調子わるいみたい。恋煩いかな、なんてね」
ななみは、苦笑いして答えるしかなかった。食事もろくにしていないようで、ななみはこっそりデスクにコンビニのサンドイッチを置いたりしたが、手をつけていなかった。
食事も忘れるほど、編集長の心の内を占めているもの。それは、やはり編集長の母の、「ホテルを継いでほしい」という懇願だろう。「あんなおふくろ初めて見た」というのは、まさしく本音で。
どれだけ自分の母親が追い詰められているか知った、ということを言外に含んでいる。
ななみは、もし自分だったら、と考えた。福岡の父が病に倒れ、母が看病に疲れ、帰ってきて、と言ってきたら。ななみは駆けつけたい衝動に駆られるだろう。
でも、そうしたら仕事は?という問題が残る。ななみの場合、見習いバイトなので、休みをもらう。休みをもらえず、クビになるパターンもあるだろう。それでも、やはり親元に駆けつけるだろう、と思う。
じゃあ、編集長はどうだろう。ななみの仕事と違って、編集長の責任は比べ物にならないくらい重い。簡単に投げ出したり、休むわけにはいかない。
そして、マスクドキングだってそうだ。ライブの回数は少ないものの、練習はきっちり続けなければ、バンドの力が弱っていってしまう。せっかく今、いい上り調子がきているだけに、今、長期の休みを取ることは、バンドとして致命的なのではないか。
そこまで考えると、ななみは思考がストップしてしまう。
編集長の義父のことも考える。うつ病なのだから、どんな精神状態になるかが肝だ。
もし、編集長がホテルを継いだら、どんなに安心して喜ぶことだろう。うつ病の状態だってよくなるかもしれない。
それは、わかる。わかるけれど。
自分の仕事が一区切りついたところで、ななみは、編集長にコーヒーを持って行った。ちょうど、飲みたくなる頃合いだ。
「編集長、コーヒー置いていきますね」
いつもだったら、ななみの目を見て、「おう」と言ってくれるところだ。
けれど、編集長はパソコンを見たまま、ぼんやりしていた。もう一度、声をかければきづくかもしれない。しかしそれはせず、編集長の机の上にコーヒーを置いて戻ってきた。
ななみの胸の内に、むくむくとわきあがってきたのは、悔しさ、だった。
こんな時、大人の女性だったら、素敵な励ましの言葉が出てくるのかな…
ななみには、なんと言うのが適切なのかわからなかった。
何か、言ってあげたい、そう思ってるのに。
ななみは、PCの画面を見ながらため息をついた。
夕方。ななみは、かよとバー「reef」でバイトに入っていた。かよから、ななみ、ぼんやりしてるね、と言われてしまった。かよに話を聞いてもらおうか、とも思ったがキングのバンド活動のことは触れられないので、うまく喋れる自信がなく、黙っていた。
胸の内にはいつも編集長の沈んだ顔があって、どうにもできない自分にもどかしさを感じるばかりだ。そんな事を考えながらグラスを磨いていると、
「ななみちゃん。ほんとにいた」
不意に声をかけられて顔をあげると、少し長髪で髪の毛くくった男性がそう言った。
「ジョーさん!」
思わずななみが声をあげると、ジョーが人差し指を唇にあてた。そうだった。この人がジョーだとバレたらいけないんだ、とななみは自分に言い聞かせた。
「あいつに聞いたら、ななみちゃんが、ここでバイトしてるって言うから、来ちゃった」
朗らかに微笑まれて、ななみもつられて笑みを作った。
「ね、少し話がしたいんだけど。そこのボックス席でちょっと話せないかな」
ちょうど、店内に客はおらず、ジョーだけだった。キッチンで在庫チェックをしていたかよに知り合いがきたと話した。少しだけ店番を抜けたいと頼む。
「いいよ。マスター来たら、緊急の用事で、とかなんとか言ってあげる。いってきなよ」
と、言ってくれた。ありがたかった。じゃあ、ちょっとだけ、そう言ってななみは黒のエプロンを外した。
ジョーがボックス席の椅子に座り、ななみも向かいの席に座った。コーヒーを出すと、ありがとう、と言ってくれた。コーヒーを一口飲んでから、ジョーは言った。
「早速なんだけど。ソウ、あいつ何かあった?この間の休み明けから、なんか様子が変なんだよ。どっか上の空っていうか。いつもは、練習の鬼なのにさ」
「そうだったんですか…」
やっぱり、バンド活動にも影響が出てたんだ、と納得する。そして、編集長の悩みの大きさがハンパじゃないことも、しっかり伝わってきた。
ななみは、意を決してジョーに話すことを決めた。全てをわかっていて、話せる人は、ジョーしかいなかった。
ななみは、編集長の義父の病状、母の懇願、叔父親子の嫌がらせについて、ひとつひとつ語っていった。
コーヒーをぐい、と飲んでジョーは言った。
「なるほどね。話はわかった。俺も、発煙筒騒ぎはあのバカ道也のせいだろうな、って薄々感じてたんだよ。俺は、ソウとは幼馴染だから、その辺の関係もよく知ってんだ。
それよりも、今回の問題の根っこは、ソウの母親の必死のお願い、だろうな」
ななみは深く頷いた。
「あの気丈なおふくろさんが、そんなに必死に頼んで来たら、心も揺れるだろうなあ。それにさ、ななみちゃん。ななみちゃんは、ミキオのこと、聞いてる?」
「はい。片岡ミキオさん。メンバーだった方ですよね」
「そう。ミキオが死ぬ前に、自分の代わりにボーカルやってくれって言ったから、ソウは引き受けた。俺達がミキオのためにやれることはバンドを続けるくらいだった。ミキオの死ぬまでの間、もっと何かしてやれなかったかな、そんな気持ちは、今だってある。
そして、今度の問題だ。今度の場合、ソウの義理の親父さんは、うつ病で。ソウが跡を継げば、病状がよくなる可能性だってある。ミキオの時は、どうすればよかったかわからなかったけど、今回はもう正解がある。ソウが、ホテルを継げばいい。ミキオの時、後悔した分、ソウは、今度こそ後悔しないように、お母さんのためになることをしたいはずなんだ。人間って同じ過ちはしたくないからな」
ななみは、自分の手をぎゅっと握った。
「でもさ。あいつは、編集の仕事を愛しているし、マスクドキングだって昇り調子だ。今、この二つの仕事から離れるなんて、できないはずだ。だから、揺れてる」
ジョーの言う通りだとななみは思った。編集長は、きっとお母さんを助けたいのだ。シングルマザーでバリバリ働いて自分を育ててくれたお母さん。気丈で、今まで編集長を頼ったことなんかなかったのに、今度だけは、違った。その事が、編集長の胸に刺さってる。
「ジョーさん、私」
ななみの、声がかすれた。
「ジョーさん、私、悔しいんです。編集長が、ものすごく悩んでるのなんて、よくわかってるのに、何て言ってあげていいかわからないんです。私は、キングの歌に何度も助けられた。もちろん、今の仕事だって、編集長に助けられてます。それなのに、私には、編集長にしてあげられることが何もないんです。本当に、何も。それが悔しくて」
ななみは、唇をかんだ。想いを口にすると、心にずんと響いた。
なんて、無力なんだろう、私。
「ななみちゃん、ソウや俺に何もしてないと思ってるの?」



