「ちちうえ、ははうえ、こっちだ! はやくはやく~!」

 駆けだした紫紺が振り返って大きく手を振ってくれました。
 私は市女笠(いちめがさ)(ころも)をめくり、手を振って返します。

「待ってください。あんまり走ると転んでしまいますよ!」
「だいじょうぶ、ころばない!」

 紫紺は自信満々に返事をすると、また駆けだしていきます。
 私たち家族は今、京の都をでて山の街道を歩いていました。
 朝早くに畿内巡(きないめぐ)りの旅に出発したのです。
 ここは山道の街道だというのに紫紺は危うげなく走っています。山で鍛錬を積んだ子なので、あの子にとっては悪路の山道も遊び場なのでしょうね。
 でも。

「あうあ〜! あいっ、あいっ」

 弟の青藍はそうはいきませんよね。まだ赤ちゃんなんですから。
 それなのに青藍は抱っこしてくれている黒緋の腕から脱出して紫紺のあとを追いかけようとします。

「あう〜っ。ばぶっ、ばぶっ」
「おいこら、暴れるな」
「あうあ〜、あぶぶ!」

 青藍が小さな手で黒緋をぐいぐい押しました。
 ここから降ろせというのです。

「赤ん坊が生意気だな」
「あう〜~」

 青藍がぷーっと頬を膨らませます。とっても怒っています。
 京の都を出てからずっと黒緋が抱っこしてくれているのに。

「青藍、わがまま言ってはいけません。あなたはまだハイハイしか出来ないじゃないですか」
「……ばぶぅ。うっ、うっ」

 あ、今度は大きな瞳がうるうる(うる)みだしました。
 思い通りにならなくて泣くしかないと思ったようです。

「おい鶯、青藍が泣いたぞ」

 黒緋が少し困ったように私を見ました。
 青藍が泣き虫だと分かっていても赤ちゃんが泣くとたじろぐようです。そうですよね、天帝が泣いた赤ちゃんをあやすなんて聞いたことがありませんから。
 そう思うと、こうして黒緋が青藍を抱っこして(なだ)めようとしてくれることが嬉しいです。

「黒緋様、青藍をこちらへ。ずっと抱っこしてくれていてありがとうございます。ここからは私が見ます」

 私は両手を差し出しました。
 でも黒緋は困ったように私を見ます。

「まだしばらく山道は続くぞ。せめて峠までは俺が連れたほうがいいだろう」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私、伊勢から京の都まで歩いたことがあるんです。お忘れですか?」

 そもそも私は伊勢の斎宮から京の都まで逃げてきたのです。危険な山道や街道を一人でひたすら歩いたのですから、その時に比べれば青藍を抱っこするくらい問題ありません。
 これは自慢ですが体力には自信あるんです。思わずえっへんと胸を張りましたが。

「え、なんであなたが怒ってるんですか……」

 黒緋は苦虫を噛み潰したような顔をしていました。
 思わず目を丸めた私に黒緋が苦悩します。