わたしが何も言えずにいると、愛沢くんは「だめか」とこぼして目を伏せた。
「え?」
「いや、何かちょっとでも思い出してくれないかなって思ったけど」
またしてもとっさに「ごめん」と言いかけたとき、彼ははたと顔を上げる。
「そうだ、ちょっと歩こうぜ」
「い、いまから?」
「うん、慣れた道だし何か思い出せるかも」
思い立ったように言った愛沢くんの声色には、期待が込められているように思えた。
そういうことなら確かに望めるかもしれない。
わたしの答えを待たずして、さっと左手を握られる。
「離れんなよ?」
引き寄せられ、傾いた身体ごとドアの外へ出る。
驚いてしまうけれど、彼は強気な笑みを返すだけ。
(何ていうか……強引な感じがする)
星野くんとは対極的な印象で、愛沢くんは気が強くて自信に満ちている。
どきどきしていた。不思議と心地いいリズム。
近い距離も触れられることも、昨日はあんなに怖かったはずなのに。
記憶を失う前のわたしは、ふたりのうちどちらのことを想っていたんだろう。
星野くんの優しさも愛沢くんの強引さも、何となく惹かれる理由が分かる気がする。
彼に手を引かれながら、近場を歩いていく。
「こうやってふたりで登校したことも、一緒に帰ったこともあってさ」
「そう、なの?」
「寄り道したり、お互いの家行ったりとか」
そんなふうに色々教えてくれたものの、どこか他人事のようにしか受け止められない。
知っている道や見覚えのある景色なのだけれど、愛沢くんとふたりで歩いた姿をうまく想像できない。
思い出せもしなかった。
────ひとしきり歩いてやがて家の前まで戻ってくると、愛沢くんがゆるりとわたしの手を離した。
指先が力を失って離れてしまった、といった具合に。
「……マジなんだな」
記憶喪失が、という意味だろう。
どんな説明に対してもわたしの反応が鈍かったから、いまになってその実感が湧いたのだと思う。
漠然としていた理解が認識として追いついた。
(でも)
心苦しいという思いより先に、どうしても疑心が湧き上がってくる。
(本当なのかな?)
ぴんと来なかったのは、本当にわたしが忘れたせいなのだろうか。
思い出せないだけ?
(本当はわたしが知らないからなんじゃ……?)
愛沢くんが“偽物”の恋人なら、最初から嘘をついているということになる。
記憶をなくしたいまのわたしはまっさらな状態だ。
嘘の思い出話をされても、あるいはそこに綻びがあっても気づけない。
偽物だったら、そこにつけ込むはず。
愛沢くんの言うことを素直に信じていいものか、正直なところ判断がつかなかった。



