ほどなくして病室に彼が現れた。
目が合うなり穏やかに微笑みかけられる。
鞄を下ろし、ベッドの傍らにある椅子に腰かけた。
「もう平気? ……傷、痛いよね」
そっと頬を撫でられる。
労わるように怪我を眺めていたその視線がふと額で止まったけれど、ひとまず気に留めないでおく。
「あ、の」
「ん?」
「実はわたし……記憶がなくなっちゃって」
ぴたりと止まった手が離れた。
「……え?」
衝撃を受けたように見張った瞳がゆらゆらと揺れている。
訝しげに眉根に力を込めた。
「本当に?」
「うん……」
「僕のことも覚えてない?」
あまりに切羽詰まった様子を目の当たりに心苦しく思いながら、もう一度小さく頷く。
彼の浮かべた驚愕の表情に、ショックを受けたような色が混ざった。
「ここ1年のこと、何も覚えてないんだ。あなたのことも、さっき病室にいた人のことも」
正直に打ち明けると、言葉を失った彼はわたしの目を覗き込むようにして見つめてきた。
「そっか……」
ややあって重たげな彼の声が落ちて、沈黙が降ってくる。
こちらを見ないまま目を伏せていた。
きっとどこにも焦点は合っていない。
「でもよかった、本当に。無事で」
彼はひと息で言いきる。
そうやって、揺れて止まない感情にどうにか折り合いをつけたみたいだ。
けれど、落胆を隠しきれていないようなやわい微笑みだった。
「…………」
そんな顔をさせてしまっているのがわたしのせいだと分かって、また心苦しくなる。
それでも彼はひとことも責めたりしなかった。
やるせなさをぶつけることも、もどかしさをあらわにすることもなく、ひたむきに寄り添って不安を紛らわせてくれる。
優しいな、と図らずも心が揺れた。
「僕は星野響也。最初にも少し言ったけど、きみの恋人だよ」
わたしの手を取り、指を絡ませるようにして握る。
まっすぐな眼差しは真剣な雰囲気だけれど、どこか照れくさそうに口元を綻ばせていた。
(星野、くん……)
整った顔立ちと甘い表情に見とれてしまいそうになる。
柔らかそうな髪も、色白でしなやかなのに筋張った手も、何だか綺麗で。
カーテンの隙間からこぼれる夕日が頬を染めようとしていた。
だけど、熱に変わる前にさっと冷静な自分が立ちはだかる。
(でも、じゃあ……あの人は?)
最初にわたしの名前を呼んでいた彼は、何なのだろう。
尋ねてみようと口を開きかけたものの、その前に彼が呟く。
「……怖かった。もう、不安で。あのときは本当にどうしようかと」



