「すみません、無神経なことを」
「いえ……」
申し訳なさそうに目を伏せた先生は「ただ」と続ける。
「暴力の可能性を否定できないということは念頭に置いておいてください。殴られた上で階段から突き落とされた、とか。灰谷さんに心当たりがないなら、1年以内に何かがあったのかと」
口をつぐんだまま頷いた。
心当たりも身に覚えもないから、きっとそうなのだと思う。
「明日には退院できるよう手続きを進めます。何かあったら、遠慮なく相談してくださいね」
先生が出ていってひとりになると、ぽす、と枕に頭を載せた。
小さく息をつく。
戸惑いが突き抜けて、かえって冷静になってきた。
(記憶は……)
入院していたって戻るわけじゃない。
痛むとはいえ怪我の程度は軽いため、入院を続ける必要もない。
むしろこれまで通りの生活をしていた方が、色々と思い出せるかもしれない。
なんて考えていると、ふいにオーバーテーブルの上に置いていたスマホが震えた。
メッセージアプリの通知だった。
相手の名前は“響也”と表示されている。
【いまから少し話せる?】
病室にいたふたりのうちのどちらかだろうか。
直感的にそう思ったとき、返信を待たずして電話がかかってきた。
(わ、どうしよう)
とっさにためらってしまう。
先ほどの一触即発の空気感に圧倒され、なおさら腰が引けていた。
(でも、話せば何か思い出せるかも)
どのみち今後関わっていくことになる。
わたしは意を決して応じた。藁にも縋る思いだ。
スマホを耳に当てる。
「もしもし……」
『あ、こころ。先生との話終わった?』
優しい声に柔らかい語り口。
きっと、あとから病室に入ってきた方の彼だ。
「えっと……はい」
『……どうしたの、そんな堅苦しい返事』
困ったように笑われる。
そっか、と思った。彼もわたしの恋人だと言っていた。
けれど、いまのわたしにとっては知らない人。
なかなか気軽には話せない。
返答に窮していると、彼は「ま、いいや」と打ち切った。
『とにかく、ちょっと話したいことがあるんだ。いまから病室行ってもいいかな』
ちょうどいいかもしれない。
わたしも失った記憶について────彼らとの関係について詳しく聞きたい。
「うん、大丈夫」
わたしの身に何が起きたのかも、彼なら知っているかもしれない。



