「ありがとうございます。本当に申し訳ないです。準備して、またすぐに伺いますね。本当にありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらずに」

 斎藤は何度も頭を下げ、急いで隣の扉に消えた。ゆっくりと閉まる扉は、何だかさっきよりもクリアに見える。突然の願いだったが、樹里の頬はちょっと緩んでいた。

 さて、ブンタを預かるとはどうしたらよいのだろう。樹里の部屋に連れて来るのか? 床の上くらい綺麗にしておけばよいか。犬と暮らしたことなどない樹里は、懸命に想像をする。出しっぱなしの雑誌を片付け、アクセサリーも引き出しにしまった。髪をキュッと一つに纏め、簡単に掃除をし始める。さっきまでの沈んだ心は何処へ行ったのか。口角は、あっという間に上がっていた。恋なら認めた方が楽だ、と大樹が言っていた。でも、これは恋じゃないの。ただの人助けだ。

 十分ほど経ったか。再度やって来た斎藤は、一人だった。そこにブンタはいない。一枚の紙を握りしめ、「おじさんの部屋に入ってもらうのも、申し訳ないんですけど」と彼は言った。なるほど。樹里がブンタのもとへ行くのだな、と理解する。


「あぁ、そんなことは気にしないでください」
「すみません。ここにご飯の時間とフードのあげ方は書きました。あと、ご面倒でしょうけど散歩のコースと。えぇとそれから、念の為に病院の番号も書いてありますので」


 整った字で綺麗書かれているメモ紙。本当にブンタのことを大事に思っているのが伝わってくるような、細かく丁寧な書き方だった。


「それから、これ。鍵です」
「あっ、はっはい」


 束になったところから、部屋の鍵を寄越す。斎藤のペットを預かるのだ。これを渡されるのも、当然のことである。


「帰って来たら、松村さんのお宅にすぐ寄りますので」
「は、はい」


 変な意識をする場面ではないと理解していても、男の人に部屋の鍵を預けられることなどそう無い。緊張で、伸ばした手が硬い。焦っている斎藤は、そんなことを微塵も気にしていないのが余計に恥ずかしかった。