ドアの前に立って、靴入れの上に置かれた鏡を覗き込む。目が赤いのは、もう仕方がない。素知らぬ顔をするしかない。もし何か言われても、「観てた映画が泣けて」とでも言えばいいだろう。まだ強張った表情を持ち上げ、樹里はドアを開けた。


「はい。えっと、どうしました?」
「あっ、あの。夜分遅くにすみません。もうお休みでしたか」
「あぁ、いえ。さっき帰って来たところで……ぼーっとしてました」


 視界がまだぼんやりしている。目も鼻も赤い樹里が顔を出したからか、斎藤は一瞬驚いたように見えた。あぁ、少しくらい顔を整えてから出れば良かった。真っ直ぐに彼の顔が見られない。


「あの、お疲れのところ大変申し訳ないんですが……ブンタを見ていていただけないでしょうか」
「あ、へ? あ、はい」
「実は、母が倒れたらしくて、病院に行きたいんです。すぐそこなんですが、いつ戻れるか読めなくて。ペットホテルを探したんですが、時間も時間で。繋がったところは空いてなくて、途方に暮れてしまって。せっかくのお休みのところに、ご迷惑なお願いであるのは承知しているのですが、お願いできないでしょうか。朝とかに、ご飯をあげてもらうだけでいいんです」


 彼は切羽詰まっているようだった。いつもの優しくおっとり構えている彼とは違い、ソワソワと落ち着きがない。五十前後の彼の母親。それなりの年だろうと想像する。状況が見えていないとすれば心配だし、すぐに帰りたいだろう。樹里はその苦しさを察し、いいですよ、と快く微笑んだ。