「よし。ブンタ、行くぞ」


 樹里がしばし撫でると、飼い主はブンタに向けてそう言った。クイッと引っ張られたリード。だが、ブンタは頑として動かない。いつもならいい子に彼の脇に立つのに、今夜はそういう気分ではないらしい。困った顔をした飼い主が、「行くよ。ブンタ」と優しく覗き込んだが、効果は見られなかった。


「まったく……そんなにお姉さんが好きなのか」


 彼が溜息を吐くと、ブンタは楽しそうに尻尾を振る。それはとても可愛らしいのだが、どうしたら良いものか。先に去った方が良いのだろうか。あれこれ考えてはみたが、結局どうすることもできずに、ただ右往左往している。


「すみません。ほら、ブンタ。お姉さんも困ってるよ。行こう」


 いつもの穏やかな口調が、少しだけ強くなる。それでもブンタは、珍しく動じない。まるでそれが聞こえていないように、樹里に身を摺り寄せるのだ。まだ撫でて欲しそうな顔をして。


「ブンタ。パパ、困ってるよ。お散歩に行っておいで」
「そうだよ、ブンタ。お姉さんだって、困ってる。ほら、行くぞ」


 ブンタは悲しそうに、こちらを見上げる。もう一度ブンタに手を伸ばし、お散歩行っておいで、と努めて優しく声を掛けた。気持ち良さそうな顔をするけれど、今夜はどうしても響かない。撫でる手を止めれば、止めるな、と言いたげにギュッと体を押し当てた。