樹里。そうもう一度呼ぶ声は、聞き馴染みがあった。ゆっくりと合った視線。その瞬間、顔が引き攣るのが分かった。彼は、長い間隣にいた男である。ここは元の会社の最寄りだと思い出し、樹里は項垂れた。


「樹里」
「……人違いじゃないですか」
「そんな訳ないだろう。何年一緒にいたと思ってんだ」


 何年一緒にいたと思ってる? 六年半ですよ。誰かのせいで終わりましたけどね。そう言ってやろうかと思ったが、大樹もいる。腹は立つが、穏便にやり過ごさねばならない。脳内のコンピュータの処理速度を上げた。


「人違いだと思います。失礼します」
「待って、待ってよ。樹里。話があるんだ」


 千裕が樹里の手首を掴む。それがまた苛立たせる。別れた原因を作ったのは、千裕の方だ。こうする意味が分からない。縋るくらいなら、浮気をするな。今も彼に湧く感情は、それだけだった。


「離してください」

 樹里を掴む千裕の手に目をやり、目を見開いてフリーズした。微妙な間が空いて、力一杯にその手を振り解く。それから、逃げるように駆け出していた。もうどうだっていい人なのに。明らかに、樹里は動揺している。見てしまったからだ。彼の左手の指輪を。