「奥さん……翠《みどり》ちゃんはね。お料理が好きなんだ。お菓子が特に作るのが好きで、よく作ってくれて。だから、そういうのが出来たらいいなぁって思ったんだ。でも正直、直の大学までの費用とか考えると、安定した収入って必要なのは拭えないからさ。まだ話もしてないんだけど」
「そうだねぇ。僕は、子どもがいなかったし。考えたこともなかったけど。そうかぁ。学費って大きいよね」

 僕は、未婚で子どもがいないから出来た贅沢はあったと思う。美味しい、楽しい、嬉しい、幸せ。僕としては満たされていたけれど、結婚して、子どもが生まれて感じたであろう感情と、それらが相対するかは分からない。子どもを育てるには、結構お金がかかるのだろうな。大学まで行くとすると、学部によってかかる費用も変わるのか。獣医学部、ってなったら、六年くらい行くのかな。ぼんやりとそんなことを考えて、井上くんの頭の中の計算が、少しだけ見えた気がした。 

「そうなんだよね。貯めておける時に貯めておかないと、ってね。夫婦でそう話してるのは事実なんだけどさ。直も一緒に暮らしたいんだろうなって……いや、正直、俺の方が不安で淋しいのかも知れない。翠ちゃんは仕事を頑張って、週末には来てくれてる。体が心配だし、無理させたくないんだけど、彼女の笑ってるのを見ないと不安なんだよな。情けないけど」

 シュンとした井上くんは、僕に力なく笑った。

「翠ちゃんね。離れて暮らし始めて、直のことは本当に心配してる。学校楽しそう、今日は何があったんだろうって。それこそ毎日。でもさ、俺のことは何も聞かないんだよな。離れて暮らす夫が浮気するかも、なんて心配は多分微塵もない。信用されてるんだと思えば良いんだろうけどさ……淋しいもんだよ」

 そっか、と言うのが精一杯だった。続く言葉が発せられない。僕は今、彼に何を言ってあげられるだろう。