「ねぇ、カナタ。本当に良かったの? 晩ご飯くらい、一緒に食べたら良かったのに」

 玉子焼きを焼いて。甘くない、ってカナタが泣いて。それを見つめながら、数十年ぶりに心から笑えたのは、二時間ほど前こと。両親はまだ孫と過ごしたそうだったのに、母さん帰ろうか、とカナタが言い出したのだ。最優先は彼の感情。もしかしたら、気疲れしてしまったのかも知れない。そう考えた私は、彼と実家を後にしたのである。

「それもいいかなって思ってたんだけど。やっぱり、また来るねってサラッとした方が、次行きやすいかなって」
「そっか」
「うん。おじいちゃんたちとの隔たりは、感じてないよ。でもさ、一度に全てがクリアになるわけじゃないでしょ」
「そうだね。それは、カナタのペースで全然いいんだけど……さ? どうしても行くの?」
「うん。おじいちゃんたちに会えたし。母さんのことだって、もっと知りたいじゃん」
「うぅん……」

 言い淀んでしまうのに、理由がある。カナタが行きたい、と言った場所が、今の私には抵抗があるからだ。

 最寄り駅を離れてすぐ、電話が鳴った。電車を降りてから見ればいいか、とポケットに仕舞い込んだまま目を瞑ったのだが。それが、なかなか切れない。大事な用事なんじゃないか。そう言ったのはカナタだ。だから仕方なく確認すれば、相手は匡。それを見て顔が強張っていたのだろう。カナタが心配してくれたのだ。だから、私の友人で、宏海の幼馴染だと説明した。まぁそこまでは良かった。カナタが、それならば会いたい、と言い出したのである。喫茶店をやっている人でしょ、と言うからに、粗方は検討が付いているらしい。そして今、私が息子を連れ立って立ちすくむのは、羽根の前。この重々しい扉を開ける勇気が、今はまだ、ない。

 匡からは、昨夜、何度も電話が鳴っていた。何かあったのかも知れない。出なくちゃ。そう思ったけれど、背後に宏海の影がチラついて、結局一度も出られなかった。そのうち『出ろよ』とキレたメッセージも何通か届いが、それも返していない。せめて一晩、そっとしておいて。勝手に呟いて、携帯の電源を切った。そして今も、私は連絡を入れられていない。ぼんやりとした眼のまま、宏海に言われた言葉を反芻した朝。嬉しい思いと、納得しきれない思いがあった。匡のことは? その思いを拭い去れなかったのだ。もしかしたら、私を正妻の座に据えることで、カムフラージュになるんじゃないか。そんなことも考えて、否定する。あの時の宏海は、真剣だったじゃないか。そんな押し問答を繰り返して、今に至るのだ。私の中は散らかっていて、何一つ答えは出ていない。匡と対峙する勇気も、当然になかった。