頭上には霞がかった青空が、眼下には湖面がキラキラと煌めく青い大海原がどこまでも広がっていた。
 
 ――日が傾き始める少し前の時刻。
 
 くじを引いてから約一か月、船に乗ってから数日が過ぎた船尾の甲板の上で。

 ミリアは、打ち寄せる波に、上下左右、緩やかに揺られながら、空の青と、海の青がぶつかるその最果てを、憂い気な顔で見つめていた。
 その手には、親友のクレアから貰った銀細工の美しいロケットがしっかりと握られている。

(ちゃんと祝福しないといけないのに、私ったら……ほんと、ダメだよね)

 そう心の中で呟くと、ミリアは徐にロケットの蓋を開いた。

 その中には、約一か月前に婚約した、恋人だったエリックと親友のクレアが仲良さそうに笑い合う姿が収められている。
 その写真を見るにつけ、ミリアはこう思わずにいられない。
 
(エリック……何のために私と付き合ってたの?)
 
 考えたくない現実に、ミリアは頭を横に振る。

(『将来、結婚しよう』って、そう言ってくれたのに。それなのに……)

 ロケットを見つめるミリアの瞳に、薄っすらと涙が浮かぶ。

(私、馬鹿だよね……ほんと)

 元恋人と親友――そんな二人が仲良く収まっているロケットなど、ミリアにとっては苦痛以外の何物でもなかった。

(帰りたいな……くじ引き前の、楽しかったあの頃に)

 ミリアは不安定な甲板の上で両手を真横に広げると、強く吹き付ける海風を体いっぱいに浴びる。
 そして、ゆっくり瞳を閉じると、心の中でこう呟いた。

(このまま鳥のように風に乗って、どこまでも、どこまでも飛んで行きたい。海を越えて、時も超えて、その先のずっと、ずっと、さらに遠くまで飛んで、飛んで、そして……)

「消えてしまいたい」

 と、そのとき――。

 風と波に煽られた船が大きく横に傾き、完全に足元を抄われてしまったミリアの体は、一瞬、宙に浮くのだった。



「……消えてしまいたい」

 そんなミリアの願いを聞き届けたといわんばかりに。
 突如、船が大きく傾き、ミリアは足場を失って宙に浮いた。

 と、その時――。

「うわっ、やばっ!」
 
 そう言って、慌てる男の声と共に。
 ミリアの腰の部分が、勢いよく後ろに引き寄せられる。

 しかしその反動で、無防備なミリアの手から、銀のロケットがするりと滑り落ちた。

「あ――」

 斜めに大きく傾いた船の甲板に、吸い込まれるように落ちていくロケット。
 
 しかし――。

 ミリアの腰を抱える男は、目にも留まらぬ素早さで、そのロケットをしっかり掴み取った。

 それを目で確認すると、ミリアはホッと胸を撫で下ろす。

 このまま海に落ちて死ぬか、甲板に叩きつけられ海に転がり落ちて死ぬか。 
 その両方のうちのどちらかだけを覚悟していたミリアは、助けられるという思いもよらない展開に、狼狽えながらも頭を下げてこう言った。

「あ、あの……助けて下さって、ありがとうございます。それで、あの……」

 ミリアは、もじもじとその男の顔を見上げると、恥ずかしそうにこう言った。

「……ロケット、返して貰えませんか」

 そう遠慮がちに尋ねるミリアに。
 ロケットを掴みとった男――青年は、澄んだ若草色の瞳を大きく見開くと、思い出したようにこう言った。

「あー、ロケット……って、これのこと?」

 そう言って、ミリアの目の前にそれをぶら下げて見せる青年に。
 ミリアはこくんと頷くと、じっとロケットを見つめた。

 青年の持つあのロケットの中には、ミリアの想い人――エリックの写真も入っているのだ。
 まさか、見知らぬ他人が勝手に人様のロケットの中身を見るとは思わないが、うっかり……ということもある。

 ミリアはスッと両手を胸の前に組むと、真剣な顔でこう懇願した。

「お願いします……返してください!」

 ミリアのその必死な懇願に、何を思ったか、若草色の瞳の青年――柔らかそうな紅茶色のくせ毛を肩口で無造作に切り揃え、前髪を軽く後ろ手に縛った若い男は、開いていたロケットを徐に覗くと、中にはめ込まれた写真に、眠そうな緑色の瞳を怪訝そうに細めた。

(やだっ……み、見られちゃった。どうしよう……写真から変な想像されたら)

 そう心の中で呟き、顔を赤くするミリアに。

 紅茶色の髪の青年は、ぶら下げていたロケットをスッと掌の中に隠すと、意味深な口調でこう言った。

「このロケットなんだけどさ、君は嫌な感じとかしないの?」
「嫌な、感じ……?」

 そう言って、訝し気に眉を顰めるミリアを前に。
 青年は大きく頷いて見せると、とても真面目な顔でこう言った。

「そう。このロケットの中身を見て、辛かったり苦しかったりしないかーってこと。もし、君がこのロケットに少なからず苦痛を感じているなら、それはたぶん、[嫌]ってことなんだよ。だからさ、その場合は、こうするのもありなんじゃないかな」

 そう言うなり。

 紅茶色の髪の青年は、片掌を下に向けて開くと、あろうことか、ミリアのロケットを、有無を言わさず海の中に落とすのであった。