オーストリア西部、湖と山が織り成す風光明媚なザルツカンマーグートの湯治場(バート)イシュル。
 半年前のオーストリア帝国皇帝暗殺未遂事件により、延期されていたオーストリア帝国皇帝フランツ・ヨーゼフとバイエルン公爵令嬢ヘレーネとの見合いが行われていた。

 1853年8月17日──。
 今宵は、皇帝の満23歳となる誕生前夜祭。
 宴の最後を締めくくるコティヨンの奏べが流れるころ、夜会服を着こんだトゥルン・ウント・タクシス家の候世子(エルププリンツ)アントンは会場に足を踏み入れた。

 大幅に遅刻したアントンを見つけた近衛騎士隊長エムメリヒ・トゥルン・ウント・タクシスが近づき、ニヤリと笑い耳打ちする。

「皇帝陛下は運命の相手と出会ったようだ」
「……そうか」

 ゾフィー大公妃の覚えもめでたいバイエルン公爵家の息女ヘレーネは、オーストリア帝国皇妃への一歩をついに踏み出したのだ。
 アントンの胸に言い知れぬ寂しさがこみ上げてきた。

(どういうことだ!?)

 会場を見渡したアントンは我が目を疑った。
 中央でフランツ・ヨーゼフと仲睦まじく踊るのはヘレーネではなく、妹のエリーザベトだったからだ。

 熱烈に見つめる青年皇帝の視線を受け、頬を薔薇色にして恥ずかしがるエリーザベト。
 初々しいカップルは会場の注目を浴びて光り輝いていた。

 見合い相手に呼ばれたのにも関わらず、皇帝は妹に夢中で見向きもしない。
 会場の隅に追いやられたヘレーネを見つけ、アントンの胸は押し潰されそうになった。

 『蔑む者たちと闘い、権利を獲得する』と、アントンに戦うことを教えてくれた勇敢な彼女は、氷像のように青褪めて固まっていた。
 普段は毅然としているヘレーネだけに、その様子はひどく痛々しい。

 王家の姫(プリンツェシン)としての尊厳が毀損された公女は、夏に降った雪のように今にも消え入りそうな儚さだ。
 項垂(うなだ)れたヘレーネの細く白い首筋に、貴公子たちの視線が集まる。
 弱った姿を晒せば、社交界で獲物にされるだけだ。

(何をしてるんだ!?)

 アントンは思わずヘレーネを睨みつけた。
 視線に気づき顔を上げた彼女と目が合う。

(そうだ、顔を上げろ。前を向け!)

 アントンの心の声が届いたのか、公女の瞳に仄かに光が灯る。
 ヘレーネは背筋を伸ばし、いつもの凛とした様子を取り戻し始めた。

(ああ、それでいい)

 悄然としていては、ヘレーネらしくない。
 どんなときでも、人前では気丈に気高く振る舞ってみせるんだ。

 視線を逸らさぬまま、アントンは安堵から笑みが零れた。
 ヘレーネは目を瞬かせ、笑うアントンを不思議そうに見ている。

 『私が、ネネ姉さまと皇帝の結婚を阻止するわ! 絶対に!』

 半年前のエリーザベトの言葉が、アントンの脳裡に蘇る。
 まさか、本当に阻止するとは夢にも思わなかった。

 ヘレーネの見合い相手が、ブルートユングカイザー(血塗れの青年皇帝)だなんて悪名をエリーザベトに吹き込まなければ、こんな悲惨な事態にはならなかったはずだ。

 今や公爵令嬢ヘレーネの評判は地に堕ちてしまった。
 彼女の一生が、台無しになっている。
 アントンは責任を感じ、重苦しい足取りでその場から立ち去った。