1853年2月18日──。 
 皇帝フランツ・ヨーゼフが暴漢に襲われたという報せは、帝都中に瞬く間に広がった。

 負傷した皇帝が運び込まれたアルブレヒト宮殿では煌々と明かりが灯る。

「兄さんは酷い怪我を負ったのに、『母がこのことを耳に入れないといいが』って母さんのことを心配して気を揉んでいたよ」

 宮殿に駆けつけた三男のカール・ルートヴィヒ大公は、兄皇帝の健気な様子を訥々とゾフィーに語る。

 我が子の孝行ぶりがゾフィーの心を打つが、今は感動している場合ではない。
 捕まったのは今は一人だが、組織が隠れている可能性がある。
 皇帝暗殺計画を企てた襲撃者の背後関係を洗わなければならない。

 日課の昼の散歩をしていたフランツ・ヨーゼフが、ウィーン市壁の下で行われている軍事訓練を眺めていた時に、背後から男が襲い掛かった。
 目撃した女性の叫び声でフランツ・ヨーゼフが振り向いたため、ナイフの刃先は硬いシャツの襟に当たって滑り、幸いにも致命傷は免れたが後頭部に傷を負った。
 男はもう一度ナイフを構えたが、副官のマキシミリアン・オドネル伯爵がサーベルで牽制し、通りがかりの肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒが助勢に駆け付け男を取り押さえた。

「兄上の容態は?」

 次男のフェルディナント・マクシミリアン大公が神妙な顔をして皇帝の容態を尋ねるが、瞳の奥の光が楽し気に踊っている。
 長子であるフランツ・ヨーゼフが亡くなれば、皇帝の座は彼の物である。

「刺し傷は深くないのに、高熱が……襲撃犯の男がナイフに毒を塗ったんじゃなかってオドネル伯爵が……」
「神はあの子を見捨てたりなんかしません!」

 涙を流して心配する三男を叱咤するようにゾフィーは励ました。

 純真に兄の回復を願う三男とは正反対の態度を見せる次男のフェルディナント・マクシミリアンは、常日頃から兄の苦境を期待している。
 今も、愉快そうに口を歪ませていた。

 フランツ・ヨーゼフの二歳差の弟フェルディナント・マクシミリアンは兄よりも己こそが皇帝に相応しいと言いたげな態度を隠そうとしない。
 陽気で社交性とカリスマ性があり周囲に魅力を振りまき、物静かで内向的なフランツ・ヨーゼフの劣等感を刺激して苦しませていた。

 幼い頃は仲が良かったのに、いつの間に仲違いするようになりお互いに憎み合い足を引っ張り合うようになってしまった。

 ゾフィーが野心家の次男を一睨(いちげい)して諌めていると、武官侍従が報告にやってきた。

「襲撃犯は、ハンガリー人の仕立屋見習いのヤーノシュ・リベーニと判明しました……」

 犯人の名前に、フェルディナント・マクシミリアンの身体がぴくりと反応したのを、ゾフィーは見逃さなかった。
 目を大きく見開き口を両手で覆う次男は、まだ誰も知らない極上の醜聞を知った宮廷夫人のように興奮で震えていた。