暁光に照らされて、東の空が白み始める。
 昨夜の激しい雷雨は嘘のように去り、湯治場(バート)イシュルは爽やかなアルプスの夏の朝を迎える。

 亜麻色の髪を寝台に散らし、昨夜の舞踏会の主役は世界一幸せそうな微笑みを浮かべていた。
 ヘレーネは、あどけない寝顔の妹を()する。

「エリーザベト、起きて」
「ん、んん……まだ、五時じゃない。姉さま、どうしたの?」

 エリーザベトは寝転がったまま、壁にかかる時計をぼんやりと見上げた。
 このまま寝かせてやりたいのはやまやまだが、今すぐ起きてもらわねば、約束の時間に間に合わない。

 ヘレーネは有無をいわさず、掛布を奪おうと引っ張る。

「起きてちょうだい」
「あ……っ!だ、だめ!」
 
 エリーザベトはあわてて毛布を抱きしめた。

 これから、二人の運命に関わる大事なことを確認しなければならない。
 抵抗する妹を見下ろし、ヘレーネは小さく息を吐くと、表情を引き締めて静かな声で尋ねた。

「シシィ、貴女は、オーストリア皇妃になりたい?」
「え?」

 姉の意図が分からず、エリーザベトは眉を寄せてヘレーネをまじまじと見つめる。

「どうなの? なりたくないなら、きっぱりと辞退なさい」
「急に、何を言ってるの?」

 エリーザベトの眠気が一気に吹き飛んだ。
 毛布を蹴り上げ、がばりと飛び起きると、唸るように声を搾りだした。

「どういうこと!?」
「大公妃殿下が、私を御呼びになってるの。これから大事なお話があるそうよ」
「なんで、ネネ姉さまに!?」
「わからないわ……。だけど、ウィーン宮廷のことをお決めになるのは皇帝陛下ではなく、皇帝の生母である大公妃殿下よ」

 ゾフィー大公妃の思し召しひとつでウィーンのすべてが決まっていく。
 大公妃の仇敵であった宰相メッテルニヒは、1848年の“諸国民の春”により政権を追われ亡命した。

 ウィーン宮廷の権力を握ったゾフィー大公妃は、フェルディナント一世が退位すると夫のフランツ・カール大公を飛び越えて若干18歳の青年だったフランツ・ヨーゼフを帝位につけた。

 ゾフィーに手を引かれ玉座に就いたフランツ・ヨーゼフは、母親に頭が上がらない。

「……フランツが、ネネ姉さまの夫になってしまうということ?」
「皇帝がシシィを望んでいたとしても、大公妃のご意向に逆らえないのは確かね」
「そんな!」

 絶句したエリーザベトの瞳が潤み、大粒の涙が零れ落ちた。
 ヘレーネは妹の濡れた頬を指で優しく拭う。

「ねぇ、シシィ。大公妃殿下がどんなお話をなさるかは分からないわ。──けれども、貴女の気持ちを知っておかないと対処のしようがないの」

 廊下の柱時計が鳴り、大公妃との約束の時間を伝える。
 ヘレーネは寝台に腰掛けると、宥めるように妹の髪を撫で耳元で優しく囁いた。

「どうしたいのか貴女の希望を教えてくれる?」
「……フランツのお妃様に私じゃない誰かがなってしまうのは嫌!」

 方針は決まった。
 大公妃からどんな話が飛び出すか分からないが、妹を悲しませる形にはしない。

 ヘレーネは、決意を込めて妹をきつく抱きしめた。

「大丈夫よ、エリーザベト。私、うまくやるから任せて頂戴!」

 慌ただしくヘレーネが出ていった扉をエリーザベトは呆けたように見つめた。

 朝早くから一体、何が起きたのか。
 大人しく行儀がいいと評判の姉は、人が変わったように騒がしかった。