舞踏会場は熱気に満ちて蒸し暑かったが、湿気を含んだ夜風が通り抜ける街は肌寒さを増す。
 目立ちにくい枯葉色のショールを羽織ったヘレーネは宿から静かに抜け出した。

 西に傾いた欠けた月は、夜空を覆う厚い雲に溶け込んでいった。
 街燈の明かりを頼りに、トラウン川の畔に建つ郵便宿駅に向かう。

 ザクセン王国の王都ドレスデンで教育を受けている兄のルートヴィヒ・ヴィルヘルムに手紙を出したい。

 
 外国からの賓客を招いた舞踏会で衆人環視の中、見合い相手の皇帝に黙殺という辱めを受けた。
 曰くつきの公爵令嬢となったヘレーネの結婚相手を改めて探し直すのは、困難だろう。

 女性が一人では生きられない時代──。
 娘は父親に、結婚すれば夫に、夫が死ねば息子の庇護を受ける。

 結婚という道を閉ざされた女は、父や兄の庇護下に置かれることとなる。
 迷惑をかける次期公爵の兄に、許しを請いたかった。
 ──そして、由々しき事態に備えて、兄の援護を頼みたい。

 だが、ザクセンは遠い。
 今から手紙を出したとしても返事が届くのは、急いでも三日はかかるだろう。
 もどかしくて仕方ない。

(手紙を出すのをやめて、馬車に飛び乗ってしまおうかしら……)

 速度の早い郵便馬車に乗せてもらえれば翌日中に兄の元に到着するだろう。
 こんな辛い場所から逃げ出したい。
 兄の胸に飛び込んで非道を訴え、縋りつき甘えたい。
 逃避行という魅力的な衝動がヘレーネを誘惑する。

(あぁ……ダメよ。しっかりしなさい)

 きっと見知らぬ土地の暗闇が心を弱くさせるのだろう。
 戒めるように(かぶり)を振って、悪魔の囁きを頭から追い出した。

 全てを失ったヘレーネだが、妹のためにまだやるべきことは残っている。
 浅はかな選択をして後悔だけはしたくなかった。
 
「っ!」

 暗い路地から突然、黒い外套を身に纏った背の高い男が現れ、ヘレーネの前に立ちふさがった。