「ヘレーネ公女殿下、お休みのところ申し訳ありません。ゾフィー大公妃殿下より、伝言を預かってまいりました」

 ノックの音に続き、女の低い声が扉越しに聞こえてくる。
 ヘレーネは緩慢な動作で身を起こし、扉へと視線を向ける。

「どうぞお入りになって」
「失礼いたします」

 頭に白いものが混じる黒髪の貴婦人が静かに室内に入ってきた。

「わたくしは、侍女頭のリヒテンシュタイン=エステルハーツィと申します」

 冬の月のように冴えた佇まいの宮廷夫人が腰をかがめて礼をとる。

「大公妃殿下からの伝言です。明朝、お会いしたいとのことです」
「……わたくしにですか? 妹のエリーザベトではなく?」

 訝しく思い眉を寄せると、エステルハーツィ夫人は少し困ったような顔で薄く微笑んだ。

「はい。大公妃殿下は、ヘレーネ公女殿下のご心痛をお察しになり、心を痛めていらっしゃいました」
「そう……伯母上にご心配をおかけしてるのね」

 へレーネの様子を大公妃に報告するのであろう。
 侍女頭の色褪せた淡い灰色の瞳がへレーネを捉え、(つぶさ)に観察している。

「日の出にはお迎えにあがります。ご準備をお願いいたします」

 エステルハーツィ夫人は淡々とした声で用件を言い終えると、恭しく一礼して退出した。
 侍女頭の足音が消え、静寂を取り戻すとヘレーネは顔を強張らせた。

 皇帝フランツ・ヨーゼフは妹のエリーザベトに心を奪われている。
 見合い相手として呼ばれたへレーネは用無しになったはず。

 いくらゾフィー大公妃がヘレーネに同情的だとしても、慰めるために朝早くから呼びつける必要があるだろうか。

(もしかして、伯母上はわたくしを──)

 嫌な想像が頭に浮かんだ途端、目の前が暗くなる。
 胸騒ぎに急き立てられ、ヘレーネは机に向かう。

 考えすぎだと一笑に付してしまうには、引っ掛かりを感じる。
 自分自身だけでなく、妹のエリーザベトにも関わってくる問題。
 僅かな違和感も疎かにしてはならない。人生の岐路に立たされていると警告が頭に響く。

 ヘレーネは落ち着かせるように息を吐き、ペンを握った。