掃除は早朝、引っ越しは深夜に限る。

 音も立てず、誰にも見られず、密やかに、三日月だけが見ている夜だった。

「あ、一ノ瀬さん、もう少し上に持ち上げて」

「重い!痛い!」

「シッ。声が」

「あ、ごめん」

「いいよ。俺がやるから」

 武者が利香の横に来て、ベッドを縦にする。

 そのまま担ぐ。

 ヨロヨロと武者が進む。

 進みすぎて203号室の方までタタタっと行ってしまう。

 逞しいのかそうでないのか掴みどころのない武者が、この時ばかりは男に見える。

 それにしても、簡易的なベッドなのになんでこんなに重いのだ、と利香は腹が立った。

 そうだ、手が冷たいのだ。

 かじかんだ手がなかなかいうことをきかないのだ。

 深夜、アパートの外廊下は極寒で、武者の吐く白い息が顔にかかる。

 ベッドは武者に任せて、利香は編みかけの手袋が入ってる籠や雑紙を運んだ。

 台所用品や細々した雑貨を運び込むと、あっという間に作業は終わった。

 利香は空っぽになった今まで暮らした部屋を眺めた。

 明かりを点けていない部屋には、カーテンを外した窓ガラスから月明かりが差し込んでいた。

 これで今までよりは楽になる。

 ホッと息を吐くと、武者が後ろに立っていることに気づいた。

「名残惜しい?」

「ぜんぜ〜ん」

 ここに越してきたばかりの頃、付き合っていた男が何度か遊びにきた。

 気の利いた会話もなく、ただ抱き合うこと数回。

 なんの未練もない。

 でも後悔はある。

「ならよかったね」

 武者は額にうっすら汗をかいて、静かに微笑んだ。


 台所で武者が沸かす湯を、利香は並んで見ていた。

 台所にしか明かりを点けていないから必然的にそうなる。

 ヤカンから湧き上がる湯気に手をかざして、2人で暖を取る。

「それでね、契約なんだけど」

武者は湯気で湿った手を擦り合わせながら利香に目を向けた。

「契約?」

「そう。そういうの、ちゃんと交わしておいた方がいいよね」

「そりゃ、そうだね」

「お互いに一つずつ出し合っていこう」

「それが契約?」

「そう。お互いにこれだけは譲れないっていうのを確認しあって、それだけは絶対に守る」

「いいねえ。じゃ私から」

「どうぞ」

「家賃、光熱費は割り勘」

 武者はうん、と頷く。

「食費は別々」

 もちろん、と利香は答える。

「共有部分の掃除は当番制」

「玄関は俺がやるよ。慣れてるから」

「じゃあ、遠慮なく」
 
 利香はちゃっかり即答する。

「干渉しない」

「立ち入らない、あ、似てるかな」

 武者が頭をかく。

「いいよ。それも入れよう」

「あとは何かなあ」

 武者がおぼろな明かりを見上げた。

「なるべくご飯は一緒に食べよう」

 武者が真顔で言う。

「え?」

「一度に調理した方が電気代やガス代がかからないよ」

「そりゃそうだ」

「だから一応連絡先は交換しよう」

「え?今日は遅くなるから先に食べてて、みたいな?」

 それじゃあ夫婦か同棲中のカップルみたいだ、と利香は少し顔が熱くなった。

「そうそう」

 武者は利香のような考えには及ばなかったようで、目を細めて笑顔を浮かべている。

「それじゃあ、一ノ瀬さんからあと1つ」

「あと1つかあ」

 利香は隣に立ってこちらを見下ろしている穏やかな武者の笑顔を見上げた。

「絶対に好きにならない」

「それは契約になくたっていいでしょ。だってお互い全然タイプじゃないんだから」

「そ、そうだけど」

「一ノ瀬さんのタイプってどんな人?」

「あっ!もう契約違反だよ!立ち入った!」

「ごめんごめん。なんかさ、おれの正反対ってどんな人間なのかなって思ったら聞きたくなっちゃった」

「そのまんまだよ。まるっきり逆」

「まるっきり逆ねえ」

 自分の正反対の人間ってどんな人だろうと利香は考えた。

 美人、スタイル抜群、巨乳、穏やか、優しい、頭がいい、不器用、金持ち。

 正反対の人間にはたった一つしか欠点がないのかよ、と利香は落ち込む。

 武者が入れたドクダミ茶をこたつに入って飲んだ。

 温まる。

 コタツの中で武者の足とぶつかる。

 そこだけがボッとロウソクの火を当てたみたいに熱くなる。

 人の体温がこんなにも暖かいなんて知らなかった。

 利香はカップを両手で包んで、少なくとも今までの生活よりは豊かになったことに単純に喜んでいた。