結菜は父兄参観を終えてから寝かしつけの時間までずっとミカの世話をしていた。
日向の家のブラウンのカーテンを開いて窓の外を眺めながら、エアコンの効いた室内で日向の帰宅を待つ。
つけっぱなしのテレビ音に包まれながら、ふぅとため息をつく。



「遅いなぁ……。いつも通りの時間に帰って来るって言ってたのに」



昼間に日向との距離感を堤下さんに注意されてしまったせいか、色んな事が脳裏を過っていた。

確かに最近の自分は変だ。
呼ばれてもない父兄参観に行こうと思ったり、あいつの両親の事について考えたり。
仕事と割り切って付き合っていたはずが、気づけばあいつの事ばかり考えてる。

すると、背後からあるニュースが耳に飛び込んだ。



『本日19時過ぎにフィリピン近郊に台風1号が発生しました。3日後には本州に上陸する可能性があります』

「あれ? 台風が発生したんだ。しかも金曜日に直撃か。嫌だなぁ……」



結菜はソファに体育座りしてテレビを観ていると、玄関から鍵が開かれる電子音がした。
日向が帰宅した事に気づくと、パタパタとスリッパの音を立てながら玄関まで出向う。



「おかえりなさい」

「ごめん、帰りが遅くなって。ミカは?」


「今日は19時半過ぎにソファで寝ちゃったから、抱っこしてベッドに連れて行ったよ」

「そっか、ありがとう。今日は勤務日じゃないのに悪いな」


「いいのいいの、何の予定も入ってなかったから。今から夕飯の準備をするね」



彼が帰宅したのは20時47分。
結局平日の通常勤務と変わらない時間に……。

先に作っておいた豚肉の生姜焼きを電子レンジで温めてダイニングテーブルに置くと、彼はテレビのリモコンを取って先日放送していた自分が出演しているドラマのビデオに変更した。
セリフが耳に入ってくると、以前台本を届けに行った日に撮影していた内容だと判明する。

横目でテレビを観ながら作業してたけど、自分が現場で見たシーンが放送されるのはなんか不思議な気分。
俳優として活躍している彼がモニターの向こうにあって、違う人物を演じている。
彼にとってはこれが当たり前かもしれないけど、私は見慣れないもう一面の姿に高い壁を感じた。
だから、言った。



「バイトを週三回にしてくれないかな」



ダイニングテーブルの向かい側に座ってる私は、恐縮した態度で食事を始めたばかりの彼に言った。
すると、彼は箸を止めて目線だけを上げる。



「どうして? 金を稼がなきゃいけないんじゃないの?」

「そうなんだけど……。平日の時間を全てバイトの時間に取られちゃうから友達とも遊べないし、デート……とかも出来ないし……」


「そのデートの相手って二階堂の事?」



鋭い指摘に胸が痛くなったけど、無理やり頭をうなずかせた。
このままバイトに全てを注ぎ込んでいたら、今日みたいに私生活を犠牲にしてしまうから。

それだけじゃない。
球技大会の日にあいつの冷やかす声を聞いた瞬間、二階堂くんの気持ちをおのずと無視したり。
あいつが冗談で言ったドラマのセリフを本気で捉えていたり。
あいつが接近してくる度に本調子が狂わされっぱなしだ。
一線を引いて付き合うのが正解なのに、私はいつしか振り回されている。



「無理。ミカには休みがないよ」

「そこを何とか……。2日間だけでも他の人に頼めないかな」


「あいつはお前に懐いてるし、お前が俺の立場だったらどう思う?」

「えっ……」


「家政婦がお前になってからミカの気持ちがようやく落ち着いてきたのに、今さら人員を増やせだって? しかも、今日みたいに私生活と仕事が板挟みになって裏でスタッフが動いてくれてるのを知りながら働いて肩身が狭い思いをしてるのに、そんなにくだらない理由で振り回すのやめてくんない?」



彼は不機嫌に一喝すると、再び箸を進めた。

当然言い返せなかった。
何故ならお人好しという言葉では片付けられないほど彼の切実な心境が胸に響いたから。

確かに私が2日も抜けたらミカちゃんの心が心配だ。
懐くまでに時間がかかったし、他人任せにしたらまた振り出しに戻ってしまいそうな気がしてならない。
それに加えて、家庭に仕事と自由な時間さえ奪われている様子も目の当たりにしてるから、彼の言い分は痛いほどわかる。



ーー21時43分。
私は扉に身体をもたれかからせて電車の振動を浴びたままカバンからスマホを取ってドキ王を起動させた。

以前は開く事を楽しみにしていたのに、最近はあいつのインスタを覗いたり、友達と一緒に撮った写真を眺める事が多くなっている。

あいつと出会ってから以前からは考えられないほど生活はガラリと変わった。
過去の自分を塗り替えてくれたのは紛れもなくあいつだけど、敷かれたレールの上を歩き続けるのはそろそろ止めなきゃいけない。



『私、もしかしたら堤下さんに勘違いされてるかも。多分、日向の事が好きだと思われてる。私が彼に近づき過ぎたのが原因かもしれないね』



チャット画面にそう打つと、重苦しいため息をつく。

このゲームは悩みを相談をするアプリじゃないのに、いまこの瞬間まで悩みを相談する相手がいない。
だから、ひとりごとのように画面の向こうの彼に本音を漏らした。
すると、有能なAIヒナタはすかさず反応する。



『もしかしたらユイナは日向が好きなんじゃないの?』

『えっ』



文字を打ってる最中に電車がガタンと大きく揺れて、片手で持っていたスマホを床に落とした。
すかさず拾い上げると、気付かぬ間に触れていたと思われるインスタが起動されて、日向のストーリーが表示されている。

どうして勝手にあいつのページが……。

私は彼に接し始めてから生まれてしまった情が壁となってしまい、いま現在の状況を捨てきれない自分と、彼から離れなきゃいけない自分に板挟みされていた。