今迄の国語の指導は100%受け身だから・・

中身に潜む言葉の繋がりまでは深まらない。

どんなに指導力が高まったとしても・・

受け身では読む者の身に迫った読みは浅い。

必要を感じないからだ。

他人事として読む場合は中味の読みは肌で感じない。

肌で読め・・・感情の五感で読め・・心で読め・・・

何かを感ずる読みをするのだ・・

読んだ後に何が残ったの・・??

その時心で読んだと言えよう・・

興味が湧かない・・うわっ滑りな読みで終わる・・

自主的に疑問を練り上げる討論式の読みではない。

義務的に教育をする時代から自主的に学ぶ時代は

終戦後飽きるほど繰り返し確認した筈だ。

今もって教材を・・否応なしに押し付けられる読みだ。

読み書きに偏った国語の時間は眠くなる。

集団教育に何の疑問も持たない現状・・

読み解いてもすらすら読む技術と漢字を覚えたに過ぎない。

学び終えても・・

中身に何が書いてあったのか・・

文字は読んだが・・中身は読まない。

場面も人物も浮かばない・・・

血肉になる読みや人間性を高める読みにはほど遠い。

読みと漢字の習得が優れて居る人が国語が優秀と

レッテルを張られて居る。

本当にそうだろうか??

言葉を活用する読み・・

言葉が生産に繋がる読み・・

工夫する読み・・・疑問を持てる読みは・・

何処で磨かれるのだろうか。