フレイヤは瞠目した。
 王都の一角で出会った人物と再会するなんて予想すらしていなかった。さらに驚くことに、外套を脱いだシルは艶やかな紺色の生地で作られた仕立ての良い上下とシルクの白いシャツを着ており、まるで貴族のような装いをしている。
 
「今日のシルさんは貴族みたいな服装……だね?」
「それは……まあ、貴族だからな」
「へぇ、貴族なんだ。どうりで似合って――えっ、貴族?!」

 シルが貴族だなんて聞いていない。パルミロはどうしてそのことを教えてくれなかったのだ。
 それよりも、あの時の自分は彼に、なんと言っただろうか。

 真っ青になるフレイヤに、シルヴェリオは追い打ちをかけた。
 
「ああ、貴族だ」
「~~っ!」
「パルミロの店で会った時は名乗らなくて悪かった。俺は魔導士のシルヴェリオ・コルティノーヴィスだ。パルミロは昔、魔導士団に所属していたんだ。俺の先輩で、今でも世話になっている」
「え、ええと……シルヴェリオ・コルティノーヴィスって……ま、まさか……領主様の弟……ですか?」
 
 フレイヤは震える声で聞いた。
 シルヴェリオ・コルティノーヴィスという名を知っている。なぜならこの地を治める領主の弟の名前だから。しかしフレイヤが今までその弟の姿を見たことはなく、また絵姿が出回っていなかったため、彼の容姿を知らない。
 彼について知っていることと言えば、巷では冷徹な性格だと囁かれていることと、次期魔導士団長だと言われていることくらい。
 
 フレイヤが冷や汗をかいている一方で、シルヴェリオは涼し気な表情で首を縦に振った。
 
「そうだ。その弟で合っている」
「~~っ!」

 フレイヤは本日二度目の衝撃を受けて眩暈を覚えた。
 できることならそのまま意識を失ってこの場から逃げたい。しかしそんな都合がいいことは起きないのが現実だ。

(ど、どうしよう……。平民区画にある店にいるから、平民だと思っていたのに……!)
 
 貴族――それも自分の実家がある街を治めている領主の弟に対して馴れ馴れしく話しかけてしまった。
 あの日のフレイヤは初めて飲んだワインの助けがあり、いつもよりもよく喋っていた。おまけにシルヴェリオの言葉にカッとして言い返しもした。不敬で罰せられること間違いない。

(これで許してもらえるとは思えないけど……まずは謝らないと!)
 
 腹を括ったフレイヤは固唾を飲むと、体を二つに折り曲げてシルヴェリオに謝った。
 
「わ、私こそ、その節は名乗らず申し訳ございませんでした。フレイヤ・ルアルディと申します。あ、あの……無礼な態度をとってしまい申し訳ございません!」
「……無礼な態度?」

 シルヴェリオは柳眉を顰める。
 美しい相貌でそのような顔をされると気迫があり、フレイヤは震え上がった。
 
「パルミロさんのお店でシルヴェリオ様に馴れ馴れしく話しかけたうえに言い返したことです」
「どうして謝る?」
「えっ? どうしてって……」

 予想外の返答に当惑したフレイヤは、シルヴェリオの顔色を窺う。
 一見すると不機嫌そうな顔をしているように見えるが、フレイヤを咎めるような気配はない。
 
「平民区画にある店に来る者を貴族だとは思わないだろう。君は()()()()()()()()()()に話しかけて自分の意見を述べただけだ。それなのに謝らないでくれ」
「……!」

 フレイヤはまたしても面食らった。
 貴族や、平民でも権力を持つ人間はプライドが高く、自分たちより地位の低い者から馴れ馴れしく話しかけられると機嫌を損ねるものだと思っていた。しかしシルヴェリオは自分を許してくれている。
 これがもしも元職場の工房長のアベラルドだったら、散々怒鳴りつけた後に理不尽な処罰を課してきたはずだ。
 
 シルヴェリオが寛容な貴族で良かったと、フレイヤは密かに胸を撫で下ろしたのだった。
 
(それにしても、貴族のシルヴェリオ様がどうしてこの店に来たのかな?)

 薬草雑貨店(エルボリステリア)ルアルディはロードン唯一の薬草雑貨店(エルボリステリア)で市民たちに愛されている店ではあるが、貴族の利用客はいない。なぜなら貴族たちはお抱えの商人に頼み、ここに並んでいる商品よりもうんと高いものを集めさせて購入するのだ。

「あ、あの……シルヴェリオ様はなぜこのような平民の店に来たんですか?」
「シルと呼んでくれ。口調も前のままでいい」
「ですが、平民の私がそうするわけにはいきません……」

 元先輩のパルミロならまだしも、彼と会って間もない自分が友人のように接するなんて無理な話だ。

「俺は君に頼みごとをする立場だ。それなら対等になるんじゃないか?」
「た、頼みごと……ですか?」 
「今日は君に香水を作ってもらいたくてここに来た。パルミロから聞いた話によると、君が作る香水には不思議な力が宿るそうだな。願い事が叶ったり、悩み事が解決するのだろう?」
「パルミロさんったら、その話をしたんですね。ただの偶然です。私が作る香水は普通の香水で、特別な力なんてありません」
 
 フレイヤは自分が一部の者から祝福の調香師と呼ばれていることを知っている。パルミロがその話を聞く度にフレイヤに教えてくれていたのだ。
 香水を作る時に魔法を使うことはないから、どれも自己申告した通り普通の香水だ。偶然が重なって、そのように呼ばれるようになったのだろうとフレイヤは予想している。

 フレイヤが噂を否定しても、シルヴェリオは引き下がらなかった。
 
「眠ったまま目を覚まさない友人を助けるために力を貸してほしい。たとえ君の作った香水が奇跡を起こさなくても責任を問わない」
「そう言われましても……本当にただの偶然なんです。シルヴェリオ様が望むような物ではありませんので……」
「試してみなければわからないだろう。もう万策尽きた状態で、偶然の奇跡さえも頼りたいくらいなんだ」

 シルヴェリオの話によると、その友人はエイレーネ王国中の治癒師や神官が診ても目覚めないらしい。
 そのような状態であれば、たしかに奇跡を願いたくなるかもしれないとフレイヤは納得した。
 
「君にとっていい条件で雇うし報酬は以前の工房の倍は払うと約束する。俺は君を無期限で専属調香師にするつもりだ。工房は君のために新設するし、販売先もこちらで探そう」
「私を……専属調香師に……?」

 再び調香師になれる好機に、心が揺れる。
 フレイヤは少しだけ、その求人に惹かれるのだった。
 
「君は以前働いていたカルディナーレ香水工房での一件で権力者を信用できないでいるだろう。俺が君を裏切ったり己の私欲のために利用しないか不安にさせてしまうのならば、誓約魔法を交わすのも厭わない」
「そ、そんな……貴族が平民ために誓約魔法を使ってまで約束するなんて……!」

 誓約魔法は、通常なら貴族が家臣や使用人として雇っている平民に対して約束を守らせるために行使される魔法だ。
 それは誓約させた相手の命を縛り、もしも相手が約束を破ると命を奪う恐ろしい魔法。使える者はごくわずかで、魔導士や神官くらいしか習得者がいない。
 
「貴族が平民に対して約束を守るために使うなんて初めての事例になるだろうな」
「……どうしてそこまでするんですか?」
「大切な友人を助けるためだ。それ以外の理由なんてない」
「友人を助けるため……」
 
 そのためだけに会って間もない平民に誓約魔法の主導権を握らせようとするとは、彼らしくない。
 世間では冷徹と噂される人物だが、友人のために命を投げうつなんて、意外と情に厚い一面があるらしい。

 やはりシルヴェリオは他の貴族や権力者とは違う人間なのかもしれない。

(調香師に戻れるし、シルさんはカルディナーレ香水工房の工房長よりもうんと良心的な人なのかもしれない……)

 そう思うフレイヤだが、彼の提案に承諾するのは躊躇われた。それほど、カルディナーレ香水工房で受け続けてきた心の傷は深いのだ。

 すっかりと黙ってしまったフレイヤを見たシルヴェリオは、彼女の困惑を読み取った。
 
「一晩考えて結論を出してくれ。明日また返事を聞きに来る。先にこの契約書を渡しておこう」

 そう言うと、呪文を唱えて魔法で紙を出現させた。次いで彼が指先を振ると、紙の上に文字が書き込まれる。

 まだフレイヤは返事をしていないのに、シルヴェリオは契約書に自分の署名を書いてしまった。そして茫然としてその様子を見ているフレイヤに契約書を手渡す。
 
「俺は、君から何も奪わないと約束する。だから信じてほしい」
「……!」

 誓いを紡ぐ声からも自分を見つめる深い青色の目にも、真摯な想いが込められている。
 
 フレイヤが勢いに押されて契約書を受け取ってしまうと、シルヴェリオは店から出て行った。
 去る前に戸口の前で貴族らしい礼をとり、彼女に敬意を示して――。
 
「どうしよう……」

 シルヴェリオは本気で自分を雇おうとしている。それも、かなりの好待遇用意してくれるらしい。
 
(魅力的な提案だし、噂に聞くよりもいい人なのかもしれない。……だけど、怖い……)
 
 自分が作った香水で、眠ったまま目覚めない人を起こすことができるのだろうか。九割の確率で失敗するに違いない。
 そうなった時、シルヴェリオがどのような反応をするのだろうか。
 彼は本当に、フレイヤを責めないのだろうか。
 
 フレイヤの脳裏に過るのは、アベラルドがかつて罵ってきた時に言っていた、フレイヤの人格を否定するような言葉の数々。
 いくつもの言葉がフレイヤの心を傷つけ、今も蝕んでいるのだ。
 
(このままお姉ちゃんたちの手伝いをするか、それともシルヴェリオ様の依頼を受けて調香師に戻るか……)
 
 フレイヤはぐるりと店内を見回した。入口がある壁以外は全て天井まである飴色の木製棚で覆われており、そこには所狭しと商品が並んでいる。フレイヤがいるカウンターも、その前にある木のテーブルも全て同じ飴色で統一されており、温かみがある色合いの空間だ。

 ここに売られているのは、テミスとチェルソが買い付けているこだわりの商品。
 品ぞろえが豊富で、塗り薬、石鹸、蜜蝋、化粧水、香油、ハーブウォーターにタボレッタがある。
 タボレッタは引き出しやクローゼットの中に入れる、ワックスで作った固形のサシェだ。クローゼットの中に入れておくといい香りで満たしてくれるから、ローデンの女性たちから人気がある。
 カウンターの後ろにはハーブや薬草やスパイスを入れたガラス瓶が並んでおり、客の悩みに応じてそれらをブレンドする。
 
 ここでの仕事も、香りで人を幸せにすることはできる。アベラルドのような横暴な人はいない、平和な職場だ。しかし、調香師として作った香りを客に喜んでもらえた時に得られた達成感を味わうことは、二度とできない。おまけに姉と義兄を見ると気まずさに悩まされる。

(明日……シルヴェリオ様になんて言おう?)
 
 フレイヤは手渡された契約書を見つめ、眉尻を下げた。