目の前で、シルヴェリオが消えてしまった。
 フレイヤは血の気が引くのを感じる。最悪の事態を想像してしまい、震えが止まらない。

(待って。たしかフラウラが、オルフェンは魔法を使ってこの場所に結界を張っていると言っていたよね)
 
 オルフェンが拒絶すると、拒絶された相手は結界の外に出される。となれば、シルヴェリオはこの結界の外にいる可能性が高い。

「私、シルヴェリオ様を探してきます!」
 
 レンゾとフラウラがいる方向に顔を向けると、彼らの姿がなかった。彼らだけではない。オルフェンもまた、いないのだ。
 
「どうして……? もしかして、結界から出されたのは、私の方なの?」

 そう呟くと、不意に自分の腕が見えない何かに引っ張られ、宙に浮いた。
 
 フレイヤは驚くと同時に、自分がオルフェンに腕を掴まれていたことを思い出す。先ほどまでは、目の前でシルヴェリオが消えたショックですっかり忘れていたのだ。
 
「オルフェン、もしかして――そこにいますか?」

 恐る恐る尋ねると、まるでフレイヤの質問に答えるかのように、目の前に金色の光の粒子が現れる。眩しさのあまり、フレイヤはぎゅっと目を閉じる。

『――ねぇ、フレイヤ。僕の声、聞こえる?』

 耳元にオルフェンの声が落ちる。ゆっくりと瞼を開くと、首を傾げて覗き込んでいるオルフェンの姿が目に映る。
 オルフェンは整った眉を下げ、どことなく心細そうに見えた。

「聞こえて……います」
『僕の姿は見える?』
「はい、はっきりと見えます」
『よかった! 魔法が成功したんだね』

 フレイヤが動かした視線がオルフェンの薄荷色の目と交わると、オルフェンは嬉しそうに微笑む。今から鼻歌でも始めそうなほど上機嫌だ。

「魔法って、まさか――」
『そのまさか、だよ。僕とフレイヤとの間に繋がりを作る魔法が成功したんだ。さっき、僕があのうるさい男を結界から弾き出した時に、あの男が君にかけていた魔法が解けてしまったんだ。それで、君は僕の姿を視れなくなっていたんだよ』

 フレイヤは妖精の姿を視れないため、シルヴェリオの魔法で、妖精を視れるレンゾの視界を共有していた。
 あまりにも専門的な魔法のため、門外漢なフレイヤにはその原因がわからないが、恐らく結界の作用によるものなのだろうと予想する。

「この魔法は、いつまで効果が続くのですか?」
『フレイヤが死ぬまでずっとだよ。だって、フレイヤの魔力回路に刻印したからね。そう簡単にはなくならないよ』

 フレイヤは両手を持ち上げると、掌をじっと見つめる。いつもと変わらない掌が、視界に映る。
 繋がりを作るという魔法をかけられたけれど、オルフェンの姿が見え彼の言葉が聞こえる以外は、何の変化もない。
 
『ところで、その首飾りは半人半馬族(ケンタウロス)の伴侶の証だよね? 珍し。人間と魔獣の婚姻は、人間が糸を紡ぎ始めてから途絶えたものだと思っていたのに』
「いえ、これは友人の半人半馬族(ケンタウロス)からお守りとしてもらった物です! 伴侶の証ではありません!」

 フレイヤが慌てた様子で否定すると、オルフェンは反対側に首を傾ける。
 
半人半馬族(ケンタウロス)が友人として首飾りを贈るのか。時代は変わったんだねぇ。以前のエイレーネ王国では、二の月に恋人に贈り合う風習があったけど、それが家族や友人同士になったそうだし、半人半馬族(ケンタウロス)の文化もそうやって変わっていくのかな。どちらにしても、半人半馬族(ケンタウロス)から首飾りを貰っているなら、あまり長くはここに置けないね。半人半馬族(ケンタウロス)は嫉妬深いから、君が僕の結界内に留まっているを知ったら厄介だ。懇意にしている精霊に頼んで、ここを襲撃させて君を結界の外に連れ戻そうとするはず。日が暮れる前に返すよ。それまでに僕が気に入ったら、猫ちゃんに魔法を教えてあげる』

 精霊とは、妖精の上位の存在だ。魔力の性質は妖精に近いが、妖精よりも遥かに強い魔力の結晶から生まれているとされている。
 また、妖精とは異なり、精霊は一つの属性につき一体しかいない。火の精霊も水の精霊も、一体ずつしかこの世に存在していないのだ。
 
 以前フレイヤが読んだ文献では、ほとんどの精霊が人型の姿だと噂されているが、真相はわからないらしい。
 なんせ精霊は、稀に人間と関わることもあるが、基本的には人間の前に姿を現さないのだ。
 
 そのため人間が精霊を知るには、妖精や精霊と繋がりのある魔獣から情報を聞き出すしかない。
 
「ハルモニアは私の幼馴染ですので、嫉妬なんてしないと思いますが……私がここにいるとわかると、心配するかもしれません。とても心優しい性格なんです」
『……へぇ? もしかして、その半人半馬族(ケンタウロス)が好きなの?』

 オルフェン声がぶっきらぼうになる。見ると、不機嫌な子どものように、両頬を膨らませているではないか。
 まるで、フレイヤがハルモニアを褒めるのが、面白くないといった様子だ。

「好きか嫌いかと言えば、好きですよ。だけど、恋愛感情からくる好意ではありません」

 なぜなら今もフレイヤの心の中にいるのは、姉の夫――義兄のチェルソなのだ。
 フレイヤは自分の胸がズキズキと痛むのを感じた。
 彼に抱いた恋愛感情を忘れようとしても、そうすればするほど、逆にその想いを意識してしまう。

 心の傷にできたかさぶたが、剥がれかかっているような気がした。

 「ねぇ、他の奴の話なんて面白くない。フレイヤの話をしてよ」
 
 オルフェンがまた、フレイヤの腕を引く。
 悲しい思い出のるつぼに嵌りそうなフレイヤの意識が、さっと現実に引き戻された。
 
「ええと……それでは、自己紹介も兼ねて香水を作りますね!」

 フレイヤは慌てて笑みを取り繕うと、空いている方の手に持っているトランクを掲げてみせた。
 
 香水に興味を示したオルフェンは、フレイヤを自身の小屋に招き入れた。

     *** 
 
 オルフェンの小屋の中は雑然としていた。天井まで高さがある本棚には本やら見慣れない道具やらが詰め込まれている。おまけに、唯一ある机の上も床の上も、本で一杯。
 森深くに住むこの長命妖精(エルフ)は、片付けがかなり苦手なようだ。
 
 フレイヤは戸口で立ち止まった。
 一歩でも足を踏み入れると、大切な本を踏んでしまいそうで不安なのだ。
 
『少し片付けるから、待ってね』
 
 そう言い、オルフェンが指先を宙で振る。床に散らばっている本を壁際に積み上げ、机に続く一本道を作った。
 オルフェンはその道を進み、魔法で机の上に散らばっているものを床の上に置く。
 
 床の上に積み重なる本を眺めていたフレイヤの目の前に、一枚の紙が舞い降りてきた。宙に浮かぶそれを手にしたフレイヤは、紙に書き連ねられた見慣れた文字を見て息を呑んだ。
 流麗で読みやすく、丁寧に書かれた文字――幼い頃に何度も見た、祖父の字だ。
 
 書かれている内容が気になったが、他者に宛てられた手紙を盗み見るのはさすがに気が引ける。
 フレイヤは紙を裏に向けて、オルフェンに差し出した。
 
「オルフェン、祖父からの手紙が落ちていましたよ。先ほど少し見てしまいました。……すみません」
『別に読んでもいいよ。それ、カリオが小言を書いているだけだから』

 オルフェンはフレイヤから紙を受け取ると、表に向けてフレイヤに見せる。

『一、毎日畑の植物の世話をすること
 二、畑で採れた植物を使って食事を作り、三食きっちりとること
 三、暗くなったら研究を止めて布団に入ること
 四、体調が悪くなったら畑の植物を下に書いているレシピ通りに煎じて飲むこと
 五、時々、妖精か人間に会って話すこと――』

 箇条書きの下には、薬草を使った風邪薬や解熱剤などのレシピが書かれている。
 友人に宛てた手紙と言うより、子どもを気遣う親のような内容の手紙だ。
 
「……昔、祖父が友人の話をしてくれました。森深くに住む魔導士の友人が、研究に打ち込むばかりで自分の生活をおざなりにするから心配だと。だから、庭に香草と薬草と野菜を植えさせたと言っていました」
『へぇ、そうなんだ。僕も同じことをさせられたよ。カリオってお人好しで、他人のことを放っておけない性格なんだよねぇ』

 フレイヤはオルフェンに勧められ、簡素な木の椅子に腰かける。差し向かいの席にオルフェンが座った。

『それで、香水ってどうやって作るの?』
「まずは香りのレシピを作るところから始めます。そのためにも、オルフェンが好きな香りを教えてください」
『えー、わかんない。だって、香りに興味がないもん』

 即答だった。香りに興味がないと言われると、聞き出すのは難しい。
 しかしフレイヤは慌てふためかず、にっこりと微笑んだ。このような状況は、カルディナーレ香水工房にいた頃に何度も経験してきたから慣れているのだ。

 お客様の誰もが目当ての香りがあるわけではない。いい香りを求めているが、そのいい香りが何なのかわからず、フレイヤたち調香師に助けを求める。
 その度にフレイヤが、彼らが理想の香りに出会えるよう手伝うのだ。
 
「それでは、私が持ってきた精油の香りを嗅いで、好きなものを教えてください」
 
 フレイヤは手に持っていたトランクをテーブルの上に置くと、鍵を開ける。
 トランクは三面に開き、正面の上部と両側の蓋部分は棚となっており、精油が入った瓶と、香水を作るための酒精の入っている瓶が並んでいる。
 正面の下段は引き出しが三段あり、試香紙(ムエット)や調香するための道具、それに空の香水瓶を入れている。

 香水瓶は円柱型で、先端には丸い硝子玉でできた蓋が付いている。深い青色の、上品な印象を与える瓶だ。
 
 フレイヤは精油の瓶を取り出して蓋を開けると、持ってきた試香紙を浸してオルフェンに手渡す。

「それを嗅いでみてください。鼻に近づけすぎると香りがきつく感じられるので、少し離してくださいね」
『これくらい?』
「ええ、それくらいの距離がいいと思います」

 オルフェンは試香紙を拳一個分ほど離し、くんくんと香りを嗅ぐ。

『これは……レモンバーベナ?』
「そうです。お好きな香りですか?」
『普通だね』
 
 フレイヤは手元にノートを広げると、オルフェンの感想を書きこむ。
 
「う~ん……シダーウッドはどうでしょう?」
『これはキツイ気がする』
「サンダルウッドはいかがですか?」
『これも、なんか嫌』
「なるほど、ウッディ系は苦手なんですね」
 
 それならばと、ローズやジャスミンなどのフローラル系の精油や、ベルガモットなどのフルーツ系の精油を取り出す。
 新たな香りを纏わせた試香紙をオルフェンに差し出すと、彼は眉間に皺を寄せて拒絶した。

『ねえ、前の香りが残っていて、鼻が気持ち悪いんだけど』
「それでは、手首の匂いを嗅いでみてください。自分の匂いを嗅ぐと、鼻の状態が元に戻るんです」
『うわあ……本当だ』

 オルフェンは魔法を研究していることもあり、研究者としての好奇心がくすぐられたらしい。
 目をキラキラと輝かせ、フレイヤの話に耳を傾けている。
 
「ベルガモットの香りはどうですか?」
『わりと好きかも。カリオが一番最初に入れてくれた茶と同じ香りがする』
「ローズはどうですか?」
『甘ったるいから苦手……』

 オルフェンは強い香りが苦手のようだ。
 フレイヤは手元のノートに視線を落とすと、オルフェンの反応が良かった香りをつけた試香紙を合わせる。今度はその組み合わせごとにオルフェンに香りを嗅いでもらった。

 そうしてフレイヤは、ベルガモットと月の雫草と呼ばれる柔らかな甘さのある香草の精油と、ラベンダーをブレンドした香水を作ることにした。
 トランクから空の香水瓶と計量カップとガラスの棒、そして酒精が入っている瓶を取り出す。
 
「私の自己紹介が終わったので、今度はオルフェンのことを聞かせてもらえませんか?」
『僕のこと……? 聞いても楽しくないよ。危険な魔法を研究しているって、妖精が視れるデカイ人間から聞いただろう?』
 
 オルフェンはスッと目を伏せた。長く繊細な睫毛の影が、滑らかな頬に落ちる。
 
 妖精が視れるデカイ人間とは、レンゾのことだろう。
 フレイヤは黙って、オルフェンの言葉に耳を傾けた。

『僕はね、闇属性の魔法を研究しているんだ。闇属性の魔法って使える人が少ないし、危険な属性魔法とされているだろう? だから僕の研究を聞くと、嫌な顔をする奴らが多いんだよ。――だけど、カリオだけは違った。なぜ僕が闇属性の魔法を研究しているのか、理由を聞いてくれたし――応援してくれたんだ』

 闇属性と聞いて、フレイヤの心の中が小さく騒めいた。フレイヤもまた、闇属性の魔法に対する恐怖心がなくはない。
 しかしその動揺を悟られないよう、オルフェンに微笑みかける。止まりそうになった手を動かし、努めて明るく振舞った。
 
「差し支えなければ、私にも教えてくれませんか?」
『最後まで聞いてくれるの?』
「はい、オルフェンのことを知りたいので、全部聞かせてください」

 そう言いながら、酒精を計量カップの中に少し入れる。続いて、ベルガモットの精油の瓶を開けた。
 
『……みんなが闇属性の魔法を使えるようになれたらいいと思ったんだ。だから、魔法を簡素化する方法を探している』
「どうして、そうしようと思ったんですか?」
『使えるようになったら、みんな安心して生活できるようになると思ったんだ。闇属性の魔法って、呪術と性質が似ているから、上手くいくと呪術の術式を書き替えて、無効化することができるかもしれない。……まあ、今は呪術を規制しているから、以前ほどみんなの生活が脅かされるようなことは、ないと思うけど』

 フレイヤは言葉を失った。
 心の中で、微かながらもオルフェンに対して恐怖心を抱いてしまったことを恥じた。
 
 オルフェンは、ただ好奇心を満たすためだけに魔法を研究しているわけではなかった。それなのに自分は、勝手にそうだと決めつけようとしていたのだ。

『……それでもやっぱり、闇属性の魔法を研究するのはおかしいと思う?』
「いいえ、おかしくなんかありません。薬師が人々を助けるために毒の研究をするように、人々を助けるために闇属性魔法を研究しているのですから、むしろ素晴らしいことだと思います」
 
 フレイヤはスポイトでベルガモットの精油を吸い上げると、慎重に精油を計量カップに移していく。
 
「実は、先ほど見せてもらった祖父からの手紙を見て、思い出したことがあるんです」

 ベルガモットの精油を入れ終わると、今度は別のスポイトを使い、月の雫草の精油を入れる。 ポタリ、ポタリと落ちる精油が、計量カップの中を少しずつ満たし、漣をうつ。

「先ほど話した、祖父の友人で森深くに住む魔導士のことですが、彼は研究に集中すると寝食を忘れてしまうから心配だと、祖父が言っていました」
『ふ~ん?』

 オルフェンは無感情な声で相槌をうちつつ、スポイトからポタリと落ちる黄金色の精油を眺めた。

「その友人は自分を労わることを忘れてしまうのに、他者のために研究に没頭している。誰かに称賛されることを望むのではなく、ただみんなが穏やかに生活できることを願って研究している、英雄のような友人だと言っていました」

 フレイヤは全ての精油を必要量入れ終えると、ガラス棒でかき混ぜる。ふわりと、爽やかでほのかに甘い香りが計量カップから漂う。
 それをよくかき混ぜると、香水瓶に移した。
 
「祖父が話していたその友人は、オルフェンのことだったのですね。実は、始めにオルフェンから祖父の話を聞いた時は、エルフの友人の話を聞いたことがなかったので戸惑っていました。……だけど、祖父が残した手紙と、オルフェンの話を聞いて、確信しました。オルフェンは間違いなく、祖父の友人の魔導士ですね」

 祖父は、人と妖精の種族の垣根を越えて、友人を大切に想っていた。きっと、それほど二人の友情は特別なものだったのだろう。

「祖父はあなたをエルフではなく、友人だと思っていたのでしょう。私に話して聞かせてくれるほど、オルフェンを大切に想っていたようです」
『――っ』

 オルフェンは端正な顔をくしゃりと歪める。薄荷色の目が潤み、大粒の涙が一筋零れた。
 
『どうして……大切に想っているなら、どうして死ぬ前に会いに来てくれなかったの?』
「……あくまで予想ですが、この森は王都に近いから、来られなかったのかもしれません。祖父が高位貴族出身なら、王都に近づけば近づくほど、知り合いに会う可能性があります。家名を捨てた祖父は、昔の知り合いに合わないよう、しかたがなく遠ざかったのでしょう。人間の――貴族の世界の事情は、複雑なんです」
『……そうか、それなら僕から会いに行けばよかった。だけど僕は怠惰だから、いつものようにカリオが来てくれると思って、待ってばかりだった。……こんなにもあっさりと別れるなんて、あんまりだよ。初めて名前を覚えた、僕にとって特別な人間だったのに……!』
 
 できなかったことへの後悔は、深く心を抉り、なかなか消えない。オルフェンはこれからの長い人生を、その傷を抱えて生きていくのかもしれない。
 フレイヤは眉尻を下げると、深い青色の香水瓶をオルフェンに差し出す。
 
「もしも祖父を思い出して寂しい気持ちになる時は、ぜひこの香水の香りを嗅いでください。香りは心を落ち着かせてくれることがあるんです。そしてもし香水がなくなったら、王都にあるコルティノーヴィス香水工房に来てください。今日のように祖父の話を一緒にしながら、新しい香水をつくりますから。もちろん、寂しさを感じる時はいつでも遊びに来てください」
『……いいの?』
「ええ、だけど私も人間で寿命はオルフェンより遥かに短いので、なるべく早めに来てくださいね?」
『うん……』
 
 オルフェンは震える手で香水瓶を受け取ると、そっと頬を寄せた。まるで、縋るように。