「おお、シルなのか? 久しぶりだな。仕事はどうだ?」

 知り合いなのだろうか、パルミロは懐かし気に目を眇めて、入ってきた客に声をかける。
 なんとなく気になったフレイヤが振り返ると、そこには旅人が着るような焦げ茶色の長い外套を羽織っている、すらりと背が高い人物が一人で佇んでいた。
 シルと呼ばれたその人物はフードを深く被っているから顔は見えないが、外套の襟元から見える首や袖口から覗く手を見て察すると、男性のようだ。髪は長いようで、フードから零れ出たそれは菫のような紫色だ。そして外套の下には魔導士団の制服である黒地に銀刺繍の上下が見える。
 
「……どうもこうもない。相変わらず忙しい」

 シルはそう答えた。低音の美声だが、ぶっきらぼうな物言いだ。そんな彼に、パルミロは目元に皺を作って笑いかけた。まるで弟を想う兄のような、そんな微笑みだった。
 
「そのようだな。元から細いお前がさらに痩せたから心配だよ。――疲れているだろうから、とりあえず座れ。体力がつくモンを作ってやる」
 
 するとシルはフレイヤの隣の席に座った。彼が近づいてくると、彼の外套からもコルティノーヴィス領原産のバラの香りがした。
 一日に二度も故郷のバラの香りを嗅いだフレイヤの頭に、かつて過ごした実家の景色が浮かんでくる。

(私はずっと……あの場所にいるべきだったのかもしれない)
 
 そもそも自分には、王都に出て調香師になるなんて向いていなかったのではないだろうか。
 不意に後ろ向きなことを考えてしまい、またもや気持ちが沈む。

 俯くフレイヤの目の前に、パルミロが大魔猪(ワイルドボア)の頬肉トマトシチューが入った白いスープ皿と、白パンを載せた皿を差し出す。
 
「フレイちゃん、お待たせ。シチューは熱いから火傷しないようにな」
「うん、ありがとう」
 
 フレイヤは笑顔を取り繕うとグラスを傾け、ワインを一気に飲み干した。胃の中がカッと熱くなる感覚がしたが気に留めず、大魔猪(ワイルドボア)の頬肉トマトシチューの皿を引き寄せる。
 木の匙で大魔猪(ワイルドボア)の頬肉を一口大に切り分ける。柔らかくなるまで煮込まれた肉は、木の匙でも切り分けられた。ほろりと崩れた塊を掬い、はふはふと息を吹きかけて少し冷ましてから口の中に入れる。

(……美味しい)

 大魔猪(ワイルドボア)の頬肉の旨味やこってりと濃厚なトマトシチューが体に沁み渡る。
 フレイヤはじっくりと味わって一口目を食べた。

 まだ見習いだった頃、アベラルドや先輩から心無いことを言われたり、悪戯で道具を隠された日には<気ままな妖精猫(ケット・シー)亭>に来て、美味しい料理とパルミロの優しい言葉に励ましてもらっていた。
 辛くなかったと言えば嘘になるが、調香師の道を閉ざされた今となってはあの工房での生活が恋しくなる。

 しんみりとした気持ちで大魔猪(ワイルドボア)の頬肉トマトシチューを食べていると、パルミロとシルの会話が耳に入ってきた。

「おい、シル。顔色が悪いぞ。また無理をしているんじゃないか?」
「いや……最近寝つきが悪いんだ。眠れなかったり、眠っても悪夢を見てすぐに起きてしまう」
「……一人で抱え込むなと何度も言っているだろう。少しは周りを頼れ」

 そう言い、パルミロがシルの頭をわしゃわしゃと強引に撫でると、その拍子にフードが脱げた。
 横目で彼らのやりとりを見ていたフレイヤは、フードの下に隠されていたシルの相貌の美しさに息を呑む。
 
(わあ、綺麗な顔……!)
 
 顔色は青白くていかにも不健康そうだが、一つ一つのパーツが整っており彫像のように美しい。彫りが深く鼻梁はすっと筋が通っており、怜悧な印象を与える柳眉の下にあるのは切れ長の深い青色の目。唇は薄く、口元は引き締まっている。彼の紫色の長い髪は大雑把にまとめられているが様になっており、魔導士団の黒地に銀刺繍が施されている制服によく映える。

 まじまじとシルを観察していたフレイヤの目は、彼の肩を見て止まった。やや力が入っており、そのまま固定されている。

(極度の緊張状態が続いている人は、肩に力が入ったままになってしまって、肩こりに悩まされているってお父さんが言っていたっけ……)

 父親が生きていた頃、実家が営んでいる薬草雑貨店(エルボリステリア)のカウンターでお絵描きをしていたフレイヤに、父親はそう教えてくれた。緊張状態が続いている人は眠りが浅く、寝不足で体調不良になりやすいということも――。

 フレイヤの緑色の目はもう一度、シルの頭から肩までじっくりと観察する。

(顔色が良くないし、目の下に隈ができてる……。寝不足の理由は緊張状態が続いているせいなのかも……)

 ふとしたひらめきが舞い降りたフレイヤは、足元に置いていた鞄を手に取ってガサゴソと中を探った。そうして飴色の簡素なデザインの香水瓶を取り出す。
 それは、フレイヤが自分のために作ったオレンジの香り水だ。オレンジから作った香油を中心にベルガモットやラベンダー、そして水とエタノールを混ぜて作った。
 仕事のストレスのせいで寝つけない夜や、職場で落ち込んだ時はこの香り水の匂いを嗅いで乗り越えてきた。
 
 フレイヤは香水瓶を両手でぎゅっと握りしめると、隣にいるシルに勢いよく差し出す。
 
「あ、あのっ……シルさん。もし良かったら、これを使って!」
「――っ!」

 唐突に名前を呼ばれて面食らったシルだが、フレイヤの手の中にある飴色の香水瓶を見て怪訝そうに眉を寄せた。
 
「それは……何だ?」
「ええと、私が作ったオレンジの香り水だよ。眠れない時や落ち着きたい時に、香りを嗅いだり手首につけて。私も眠れないときや緊張した時に使っているんだけど、オレンジの甘い香りに癒されて心が落ち着くから眠りやすくなるよ」
「……香りなんかで改善できるのか?」
「こ、個人差はある……かな」

 香りなんかと言われてしまうと、心が沈む。それでも困っている人を助けたいという想いがまだ心の中に残っており、めげずに香水瓶を差し出した。
 シルはすぐには受け取らなかったが、パルミロに「良かったな。貰っておけよ」と促されて香水瓶を受け取った。
 長く綺麗な指で香水瓶の蓋を開けて慎重に匂いを嗅ぐ姿は警戒心の強い野良猫のようで少し可愛らしい。
 
 二人の様子を見守っていたパルミロが、ニヤリと口元を歪めてシルを肘で突いた。
 
「おっ、フレイちゃんからいいもん貰って良かったな。フレイちゃんは調香師なんだぞ」
「……昨日までは、ね……。解雇されたから、今は無職。私が働いていたのは大きな工房だったから、そこを辞めさせられた私を雇ってくれる工房はないの。……だから私は……もう二度と、調香師になれないんだ」

 自分の口からその事実を言うと惨めになった。

「私……何も悪いことしてないのに。ただ言われるままにお客様を対応して……お客様が望む香水を作っただけ。それなのにこんな仕打ちを受けるなんて、あんまりだよ……」

 フレイヤが四年間積み重ねてきた努力を、工房長はたったの一瞬で崩したのだ。
 
 自分の努力は何だったのだろうかと思うと、怒りと悲しみが再びフレイヤの心の中で暴れ始める。

「権力者は狡いよ。たったの一言で、弱者の人生を簡単に踏みにじるんだから」
「――それで、君は解雇について、その工房長に抗議したのか? もしくは商業ギルドに告発をしても取り合ってもらえなかったのか?」

 シルの深い青色の目が、フレイヤを見据える。研ぎ澄まされた刃のような鋭い眼差しに、フレイヤは身を竦ませた。

「い、いえ……。どちらもしていません。たとえしたとしても、相手にしてもらえないとわかっていますから」
「鼻から勝負をしなかったのか。それでは何も得られないぞ」
「――っ!」

 シルが言う通りなのかもしれないが、心に傷を負っているフレイヤはその言葉を受け入れられなかった。
 抉られた傷口は熱を放ち、彼女の怒りに結びつく。
 
「そんな風に言わなくても、いいじゃないですか。シルさんは調香師の世界を知らないからそう言えるんです!」
「さあ、どうだろうか。どの世界にも通じる話だと思うけどな」
 
 二人の間に険悪な空気が漂い始めたその時、パルミロが間に割って入ってきた。

「シル、その言い方はないだろ。職人の世界は複雑なんだよ。……特に平民はな、肩身が狭いんだ」

 パルミロは先ほどから片手に持つボウルの中身を泡だて器でガシャガシャとかき混ぜているのだが、その腕にさらに力が込められる。

「あのバカ工房長め、フレイちゃんの努力を踏みにじるなんてどうかしてる。天罰が下って苦しめばいい!」
 
 そのボウルの中から甘い香りを嗅ぎつけたフレイヤは、くんくんと鼻を動かした。その反応を見ていたパルミロは目元を綻ばせると、ボウルの中身を手元にある皿の中身に手早くかけた。そうして果物やキャラメルソースをその上に載せると、フレイヤの目の前に置く。出てきたのは、真っ白なクリームがかかったふわふわのシフォンケーキだ。
 
「わあっ! ケーキだ!」
「これは俺の驕りと餞別だ。――大丈夫、フレイちゃんのようないい子には、これからきっといいことが待っているよ。オジサンの経験上、いい人には幸せが待っているってわかるんだ」
「……ありがとう。パルミロさんがそう言ってくれたら、その通りになる気がする」

 フレイヤはパルミロからフォークを受け取ると、シフォンケーキを一口大に切り取って口の中に運ぶ。柔らかい生地とふわふわのクリームの甘さに心がホッとする。

「美味しい……」

 零した言葉と一緒に、涙が落ちて頬を伝う。

「そうか、良かったよ。フレイちゃんは本当に甘いお菓子が好きだなぁ。……ううっ、こんなにいい子なのに、どうして女神様は助けてくれなかったんだ……!」

 パルミロはフレイヤの涙にもらい泣きして、二人はわんわんと泣いた。
 その様子を、シルは始終当惑した表情で眺めていたのだった。