フレイヤとシルヴェリオを乗せた馬車は、軽快な調子で街道を進んでいる。

「……」
「……」
 
 二人はそれぞれ思うように過ごしており、馬車の中は静かだ。
 フレイヤは窓の外の景色を楽しみ、シルヴェリオは魔法関連の本を読んでいる。

 貴族と同じ馬車に乗ることに遠慮していたフレイヤだが、初日と比べると寛いでいる。この沈黙を苦にしていない様子だ。
 フレイヤからすると、昨日の宿の部屋にいる間の方が息苦しくてならなかったらしい。
 昨夜は中継地点にある宿で一泊したのだが、シルヴェリオが用意してくれた貴族用の部屋に泊まることとなった。奢でだだっ広い部屋に一人でいることに恐縮して、ゆっくり休めなかったのだ。
 その反動なのか、狭い馬車の中でた誰かと一緒にいると落ち着くらしい。
 
 少しだけ開いている窓から風が入り込んでくると、フレイヤはくんくんと鼻を動かした。
 
「あ、潮の香りがしてきました。もうすぐで王都に着きますね」
「潮の香りか……俺はまだわからないな」

 シルヴェリオは読んでいた本を閉じて顔を上げる。少しだけ匂いを嗅いでみたが、微かに眉根を寄せるとすぐに止めてしまった。
 
「君は本当に鼻がよく利く」
「調香師は嗅覚が武器なんです。精油の香りを嗅ぐだけで、使われている植物の産地や部位が分かりますよ」
「……大した力だ。もはや人間の域をこえているな」

 人間というよりも、むしろ――。
 シルヴェリオはフレイヤの髪にちらりと視線を送った。
 波打つ榛色の髪は、少しだけ後れ毛を残して頭の後ろで纏められている。風に揺れるその後れ毛を見ていると、やはり幼い頃に出会った仔犬を思い出してならない。
 
 この二日間で幾度となくフレイヤとあの時の仔犬の姿を重ねてしまった。そのせいなのか、時おりフレイヤに犬の耳が付いている錯覚さえも見えてしまう始末だ。
 
 ――あの髪も、仔犬の毛と同じように柔らかいのだろうか。
 そのような魔が差したことに気づいたシルヴェリオは、咳ばらいをして話題を変えた。
 
「王都に着いたらまずは昼食をとる。それから不動産屋へ行こう。工房の場所を決めたいし、君の住む家も探さないといけないからな」
「あ、あの、私の家は別の店で見ますね。平民の私が貴族向けの店にある物件を契約できるとは思えないので……」
「……わかった。まずは平民区画にある店で君の家を探す。住む場所が決まらないままでは不安だろう」
「お気遣いありがとうございます。では、家が決まったら迎えに行きますね」
「俺もついて行く。そうすれば、君は余計に移動する手間を省けるはずだ」
「え、ええと……いいのですか?」
「構わない。今日の予定は工房の準備くらいだから気にするな」

 真面目なフレイヤは、気にするなと言われてもどうしても気にしてしまう。
 シルヴェリオ本人がいいとしても、平民の自分が貴族のシルヴェリオを連れて王都を歩き回っていいものだろうか。
 
(それに、今日のシルヴェリオ様はどこからどう見ても貴族って服装だから目立つよ……)

 白いシャツに紺色の上下とベストを合わせたシルヴェリオは溢れんばかりの気品を滲ませており、元来の美貌も相まって大変目を引くのだ。
 
「あの……差し出がましいとはわかっているのですが……平民に連れまわされていると、シルヴェリオ様が悪い噂を流されませんか?」
「気にするな。元より俺は血筋的には生粋の貴族ではないから、ありもしない噂をよく流される、父親とその愛人との間に生まれたから、貴族社会ではいい噂話のネタなんだ。だからそのようなことには慣れている」
「……っ」
「それに、何か言われたところで君を雇っていることを話せばいい。その事実を聞いても理解できない者は放っておくのに限る。相手にしていると時間の無駄だからな」
「そう……ですか……」
 
 冷徹な次期魔導士団長と噂される彼は、いつもの澄ました顔を崩さずに言いのける。
 
(慣れているって言っているけど……本当なのかな……?)

 フレイヤは姉のテミスから言われた言葉を思い出す。
 
 人は心無い言葉をかけれたり、ありもしない噂を流されると、どうしても心の傷が蓄積していくものだ。だから少しでも悲しみや怒りを感じた時は、自分の気持ちを無視してはならない。悲しい時は誰かに助けを求め、怒りを感じた時は怒っていい。
 
 幼い頃から大人しい性格で、他の女の子よりも長身のフレイヤは、故郷の街でいじめっこたちの標的にされがちだった。本当は大人たちに言いつけたかったが、いじめっこたちからの報復が怖くて言えなかった。
 何事もなかったと思うようにして我慢していたフレイヤの気持ちに、テミスは気づいてそう言ってくれたのだ。

(私も初めはシルヴェリオ様が冷徹だという噂を信じてしまっていた……)

 勝手に決めつけて怯えていたとは、なんと失礼なことだっただろう。
 フレイヤは両手の詰めが白くなるほど手を握りしめ、過去の行いを悔いた。
 
「あの……私はシルヴェリオ様にどんな噂が流れていても、シルヴェリオ様の言葉を信じます。だってこの二日間で、シルヴェリオ様が優しくて思いやりのある方だって、わかりましたから」
「……っ」
 
 シルヴェリオは深い青色の目をぱちぱちと大きく瞬かせてフレイヤを凝視した。

「優しくて思いやりがある……か。そのようなことを言われたのは生れて初めてだ」

 ぽつりと言葉を零した後、シルヴェリオは黙ってしまった。彼の目元が微かに綻んでいたのだが、外を眺めていたフレイヤは気づいていなかった。
 
 やがて馬車が王都に着いた。馬車から降りたフレイヤは、感慨深げに辺りを見回す。

「王都に帰ってきたんだ……」
 
 二人が降りたのは平民区画の入り口付近だ。橙色の屋根が幾重にも連なる景色が二人を迎えてくれる。
 数日前にここを発った時とは変わらない景色だが、フレイヤが置かれている状況は全く違う。
 今は大きく開かれた新しい生活の扉の前に立っている。調香師の道を閉ざされてしまったあの時とは違うのだ。
 
「フレイさん、ここから歩いてパルミロの店に行こう」
「はい!」

 期待と不安を半々に抱えながら、フレイヤは歩み出す。シルヴェリオと並び、<気ままな妖精猫(ケット・シー)亭>へと向かった。
 
     ***
 
 店に到着すると、ちょうどパルミロが外に出て看板を置いている所だった。
 パルミロは二人が近づく気配を察して顔を上げた。
 
「いらっしゃ――ってシルじゃないか!」
「ああ、フレイさんも一緒にいる」
「フレイちゃん、会いたかった!」

 パルミロはじわりと目を潤ませると、袖口で乱雑に拭く。
 
「二人が一緒にいるということは、もしかして……」
「これからフレイさんを雇うことになった。二人で香水工房を開く場所を探しに行く前に、腹ごしらえをしに来た」
「そうかそうか、今日は俺からの祝いで特別に飯を振舞ってやるよ。腕によりをかけて美味いもんを作るから食べていってくれ」

 扉を開け、二人を見せの中に招き入れたパルミロは、フレイヤと目が合うとパチリと片目を瞑った。

「おかえり、フレイちゃん」
「ただいま、パルミロさん」

 カウンター席に並んで座ると、パルミロが水の入ったグラスを出してくれる。ほんのりとレモンが香る水はのど越しが良く、長旅で疲れた体に染み渡った。

「んじゃ、何が食べたいか言ってくれ」
「パルミロに任せる」

 シルヴェリオはメニュー表には触れもせずにそう答えた。一方でフレイヤはメニュー表とにらめっこしている。
 
「よし、わかった。フレイちゃんは?」
「ええと……エビのリゾットで!」
「おうよ、いつもよりエビ多めにするから楽しみにしてくれ」

 するとシルヴェリオがフレイヤの手元にあるメニュー表を覗き込んだ。
 
「フレイさん、デザートは何がいい?」
「えっ?」
「三食全てにデザートを付ける契約をしたのだから好きなものを頼むといい。デザートは俺が支払うから気にするな」
「あっ、そうでした」

 契約したとはいえ、デザート代を出してもらうとわかっていながら頼むのはいささか気が引ける。
 戸惑っているフレイヤを見たシルヴェリオは、デザートを決めかねていると思ったらしい。

「迷っているようなら全部頼もう。パルミロ、ここにあるデザート全て出してくれ」
「ぜっ、全部は食べられませんよ!」
「何を言っている。領地から持ってきた菓子を全て食べ尽くしていたのだから入るだろう?」
「~~っ!」

 フレイヤが羞恥で顔を真っ赤にして震えていると、シルヴェリオは目元を綻ばせた。
 そんな二人の様子を、パルミロは呆気に取られて見守っている。
 
「二人とも……なんだか、見ない間にすごく仲良くなったな?」
「これから共に働く仲間だからな。親睦を深めておくのも悪くない」
「お、おう……」
 
 シルヴェリオらしからぬ言葉に驚き、パルミロは言葉を失った。
 自分が魔導士団に所属していた頃の記憶が確かなら、シルヴェリオは仕事仲間との交流に消極的だったはず。

(それになんだか、シルの距離感が近いような……?)
 
 これまでは他社を近づけない雰囲気を出していたシルヴェリオだが、フレイヤに対しては自分から近づいている。おまけに時おり、彼女の髪を見つめては口元を綻ばせているではないか。

(こりゃあ、恋だな。初めてフレイちゃんに会った時だって、お淑やかな美人って俺に言ってきたくらいだし、相当気になっているに違いない)

 まさかシルヴェリオがフレイヤと仔犬の姿を重ねているとは思いも寄らず、パルミロは可愛い元後輩の恋を応援しようと誓ったのだった。