牝山羊(キマイラ)を倒して魔犬を追い払った後、シルヴェリオは紙に事の顛末を書いて魔法で魔導士団の本部に送ると、牝山羊(キマイラ)に襲われていた二人の男性を馬車に乗せてすぐにその場を後にした。
 目指すのは隣町。というのも、壮年の男性が牝山羊(キマイラ)に引っかかれて脇腹に傷を負っていたのだ。
 応急処置の心得があったフレイヤが傷口を洗って止血をしてはいるものの、傷口が塞がっていないから早く治療しなくてはならない。
 こうしてフレイヤとシルヴェリオが同じ座席に並んで座り、差し向かいに老人と壮年の男性が座ることとなった。

「この馬車に描かれている家紋から察するには、あなたはコルティノーヴィス家の方ですね。助けてくれてありがとうございます。私はしがない街薬師のロドルフォと申します。隣にいるのは甥のベニートです」
「ロドルフォ様! 何を仰っているん――」
「お前は黙っておれ。いつものように騒いでいると傷口が広がるぞ」
「しかし……!」

 壮年の男が非難めいた声を上げたが、ロドルフォが鋭い一瞥で黙らせた。二人の関係はどう見ても叔父と甥には見えない。
 
 シルヴェリオは改めて、老人とその護衛らしき壮年の男を観察する。
 老人は銀色の髪を丁寧に撫でつけており、身なりを上品に整えている。切れ長の黄金の目と豊かに蓄えられた銀色の口ひげが風格を出しており、ただの平民には見えない。
 おまけに彼の佇まいは権力者のそれだ。平民を装っていても隠し切れないほど身についたものなのだろう。
 一方で壮年の男の方は栗色の髪と目を持つ寡黙そうな人物で、深い傷を負っているのにもかかわらず痛みを感じていないような平静さを装っている。よほど経験を積んだ護衛に違いない。
 
「二人はなぜ牝山羊(キマイラ)に襲われていた? 住処を荒らしたのか?」
「とんでもありません。我々の馬車の前に、急にあの魔獣が現れたのです」
「ふむ、魔獣の姿が見える前に異変はなかったか?」
「私は何も……しかし、ベニートが血の匂いがすると言っていました。そうだろう、ベニート?」
「はい、一瞬ですが強烈な血の匂いを嗅ぎました」
 
 ベニートと呼ばれる男は小さく頷くと、そう述べた。
 二人の表情に焦りや後ろめたさのようなものはなく、嘘をついているようには見えない。

(となれば、偶然の出現か、それともこの二人を狙った何者かが牝山羊(キマイラ)をしかけたのか――)

 シルヴェリオの視線はもう一度、目の前の二人に注がれる。
 
(ロドルフォとベニート……どこかで名を聞いたことがあるような……)

 記憶を辿ろうとしたシルヴェリオだが、視界の端に映ったフレイヤの手にベニートの血が付いていることに気づき、彼女にハンカチを差し出した。
 手に付いた血を拭うようにと言ったのだが、フレイヤは受け取ろうとしない。ハンカチにはコルティノーヴィス伯爵家の家紋が刺繍されていたものだから、それで手を拭くのは躊躇われたのだ。
 
「気にするな。ハンカチくらい、いくらでも替えがある」
「で、でも……」
「そのままだと菓子を食べられないぞ」
「こ、こんな状況でも菓子を食べたくなるような食いしん坊ではありません!」
「ふっ……」

 シルヴェリオは笑い声を零すと、フレイヤの手にハンカチを押しつけた。真っ白な絹のハンカチに血の赤い色が移ると、フレイヤは観念して受け取る。
 そんな二人を、ロドルフォは頬を緩ませて眺めていた。

「お二人は仲がいいですな。この老いぼれには少しばかり眩し過ぎるくらいだ」
「え、ええと……私たちは、その……」
「ほほほ。なに、無粋なことは考えておりませんゆえご安心を。良い絆で結ばれているのだと思ったのですよ」

 フレイヤが狼狽えると、ロドルフォはころころと笑った。しかしその金色の目は一瞬だけ鋭い光を宿していたことに、フレイヤは気づいていない。
 
「それにしても、お嬢さんは応急処置の手際がいいですね。コルティノーヴィス様の専属医師かい?」
「いえ、私はただの調香師です。応急処置は祖父から教わったんです。祖父は修道士だった頃、魔物討伐に同行したり災害地域へ赴いて怪我人の手当てをしていましたから」
「ほう、修道士……ですか」

 ロドルフォはゆったりとした手つきで口ひげを撫でつつ、遠くに想いを馳せるような素振りを見せた。
 
「差し支えなければ、お嬢さんの名前を聞いても?」
「フレイヤ・ルアルディと申します」
「ふむ……ルアルディ……ルアルディ……ですか。もしよろしければ、私にも香水を作ってもらえるかな? もちろん言い値で買います」
「それは……ええと……」

 フレイヤは口ごもりながら、シルヴェリオの顔色を伺う。
 申し出は嬉しいが、今の自分はシルヴェリオの専属調香師だ。彼の許可なしに仕事を請け負うことはできない。
 
 元上司のアベラルドなら顔を顰めて嫌味の一つや二つを言ってくる状況だが、新しい上司のシルヴェリオはいつも通りのスンとした表情のままだ。彼の考えが読めない。
 
「シルヴェリオ様、よろしいでしょうか?」
「ああ。工房ができるまでの間は、依頼の連絡は王都にあるコルティノーヴィス伯爵家の屋敷に送るといい」
「あ、ありがとうございます!」
「今後も君に来た依頼は君の判断で請け負って構わない。もしも厄介な依頼が来たら、その時は俺に相談してほしい」
「いいの……ですか?」
「君が働きやすい環境を作るのが雇い主であり上司でもある俺の仕事だ。不便があればいつでも言ってくれ」
「――っ!」

 シルヴェリオが淡々と述べた言葉は、フレイヤの心を大きく揺さぶった。
 
 カルディナーレ香水工房でこのようなことを言ってもらえたことがあっただろうか。
 あの場所でのフレイヤは働きづらさを感じたら自分を変えていくしかなかった。

 仕事量が増えれば食事や睡眠を削って仕事を終わらせ、理不尽な仕打ちは抗議せずに受け入れる。
 それは彼女たち従業員がアベラルドに改善を求めると辞めさせられる可能性があったからだ。

 ――自分たちは工房長を引き立てるための飾りかカルディナーレ香水工房を動かすための道具に過ぎない。
 かつての同僚がそう零していたのを覚えている。そしてフレイヤ自身もそう思っていた。
 しかし調香師の世界に長らく身を置いていたフレイヤたちは、そこから離れることができなかった。
 カルディナーレ香水工房を出ると、調香師ではいられないと思っていたから――。

(今まではカルディナーレ香水工房を追い出されたら終わりだと思っていたけれど……案外、そうでもないんだね)

 ぶっきらぼうでも部下を大切に想ってくれる上司との出会いが、目の前が真っ暗になっていたレイヤに希望を灯してくれた。彼との交流がフレイヤの心の中にある不安を、少しずつ薄めてくれている。

 ――人との関わりできた心の傷は、人との関りで癒えるもの。
 生前の祖父がそう言っていたことを思い出したフレイヤは今、その言葉を身をもって実感している。
 
(シルヴェリオ様と出会えてよかった)

 しみじみと彼との出会いを振り返るフレイヤは、ロドルフォの金色の目が自分を捕らえていることに気づいていなかった。

     ***

 やがて馬車が隣町に到着すると、フレイヤたちは傭兵団の面々に牝山羊(キマイラ)出現の話を伝え、ロドルフォたちを病院に連れていった。
 病院を訪ねてきた町長の話によると、先ほどシルヴェリオの知らせを受けて魔導士団から連絡があったようで、近くにある魔導士団の支部から人員が送られて牝山羊(キマイラ)の処理が行われるらしい。
 
「コルティノーヴィス様、ルアルディ様、この度は助けてくださって本当にありがとうございました。お二人に女神様のご加護がありますように」
「ありがとうございます。ロドルフォさんとベニートさんのお怪我が早く治りますように」
 
 フレイヤとシルヴェリオは、二人に背を向けて馬車に乗り込む。
 遠ざかる馬車を見つめながら、ロドルフォはベニートに声をかけた。
 
「フレイヤ・ルアルディとシルヴェリオ・コルティノーヴィスについて調べなさい。特にフレイヤ・ルアルディについては家族まで調べておくれ。気になることがある」
「かしこまりました。……あの、私の記憶が正しければ、フレイヤ・ルアルディとは王妃殿下が探していた調香師でしょうか?」
「そうだとも。息子が呪いにかかってからというものずっと気を揉んでいる()()()のために、彼女の侍女が香水を作らせた調香師に違いない。見つけられて良かったよ。はるばる探しに来た甲斐があった」
「だからといって、平民の変装までせずとも見つけられましたでしょうに。前イェレアス侯爵ともあろうあなたの身に何かあれば、王国中の貴族たちが覇権を巡って争うのですよ?」

 ジト目で睨みつけてくるベニートに、ロドルフォ――前イェレアス侯爵で現王妃の父親であるロドルフォ・イェレアスは悪戯が成功した子どものような笑みを向ける。
 
「そんなことはない。私はもう引退して爵位を息子に譲ったではないか。ただの老いぼれがいなくなったところで何も起こらないだろう」
「ただの老いぼれは刺客や魔獣を差し向けられたりしません。今回はコルティノーヴィス伯爵の弟君が通りかかったから良かったものの、あのままではどちらも命を失っていましたよ」

 イェレアス侯爵家はエイレーネ王国の建国当初からある由緒正しい家門だ。
 過去には騎士団長や神殿長を輩出しており、その他にも魔法の研究や医療の発展に貢献してきた名家。その背景から、この国では王家に次ぐ力を持っていると噂されている。
 
「引退しているのに、これからあのセニーゼ家に灸を据えるおつもりなのでしょう?」
「もちろんだとも。ポッと出てきた成金や新興貴族が好き勝手に暴れているのは見ていられないからな」
 
 引退してもなおロドルフォの影響力は強い。彼が動けば、他家の当主たちはその後をついて行くだろう。だから今もなお、ロドルフォは命を狙われ続けているのだ。
 そんな彼を放っておけず、ベニートもまた引退する歳だというのに現役で護衛を続けている。

「それにしても、運命とは不思議なものだね。一度切れてしまったと思っていた縁が、意外なところで繋がっているのだから」

 ロドルフォは目を閉じ、瞼の裏にフレイヤの姿を思い描く。
 榛色の波打つ髪に若草色の目、そして他者のために危険を顧みない行動力は、彼のよく知る人物を思い出させる。

「あの子たちが進む先を見届けようではないか」
「あなたのことだから、見るだけでは収まらないでしょうに」

 非常に乗り気な主がひと波乱起こしそうな予感がしたベニートは、そっと溜息をつくのだった。